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日記699



認知能力は時間の感じ方から狂いが生じてくるのかなと思う。少しずつ。夏もどんどんみじかくなる。としをとればみんな狂う。もし全員そうなら「狂い」ではなくて、ふつうのことか。そうね、「ふつうのこと」として考えたい。しかし誰もが同じわけはない。

「時間」という共通の容れ物が日を追うごとに、自分ひとりの容れ物へと変化してしまう。そうやって物覚えが悪くなる。記憶には、外からあらたな時間をとりこむような側面もある。それがままならなくなる。他人の話を聞くこともそう。あたらしい時間を感受できない。

若い時分はいくつもの時間の輻輳をみずからの内にとりこむことができる。多くの時を汲み取り、また編み出せる。齢を重ねると時は一本に収斂する。外れ道を、長い長い単線列車がゆっくり行き来するような。べつの時へとつながる乗り入れの経路が徐々に閉じてしまう。それはきっと、老い先の孤独であると同時に人生を賭けてちいさな自由を手に入れた状態でもある。残りの時間は、閉じた記憶に揺られるだけでいい。




人間の関係は連続的にできていないと、なんとなく感じる。これは老若問わず。その都度、その都度、一回かぎりで構築される個別的なものだと思う。顔を合わせるたびあたらしく立ち上がる。「つづき」なんてあると思ってはいけない。つぎに会う時間は、同じ人でもちがう人間。そのくらいの距離感と緊張感を保っていたい。

ほんとうは何でも一回かぎりで、断片の連続なのだけれど、つねに前回があってさらにつづきまであるかのようなふりをしている。別れ際にはいつだって、まだまだつづきがあるかのようにふるまう。

あいさつとは、ちいさなうそだと思う。うそのお芝居から始まって、お芝居でまたつなぐ。このお約束のおかげで正気が保てる。ちいさなつくりごと。芝居の合図。それで接着する。断片の隙間を埋めるつなぎがフィクションの役割だろう。

分かたれた時を折り合いのいいことばで縫い合わせる。あたかもわたしたちのあいだには関係がある、かのようにふるまうため。「かのように」の維持には、相互のがんばりが必要となる。とくにわたしは芝居が下手くそで苦手だから、そうとうがんばらないといけない。

役を演じるより、幕間の評言にうつつを抜かしてしまう。外野で野次を飛ばす第三者なら気楽でいいと思う。暑い夏の日も、夢のうちに通り過ぎてしまいたい。なんにも関係ないみたいに。でも暑いから。朝起きたらもう「暑い」とつぶやく。夏との関係が立ち上がる。

疲労感が抜けない。気怠くていけない。気休めがほしい。
なるべく素朴な。芝居っ気のないやつがいい。




お昼に家で蕎麦を食べながら、NHKのドキュメンタリー「ラストトーキョー」の再放送をみた。“はぐれ者”たちの新宿・歌舞伎町。俳句一家の屍派が登場する。北大路翼さんの句「ウォシュレットの設定変へた奴殺す」で父が腹を抱えて笑っていた。「ほんとそう思うよ!」と共感を示しながら。大いに心当たりのある感情らしかった。水の勢いゆるめてごめん、と思った。

屍派の拠点、砂の城で「全員が自分の話ししてる、この美しさを撮ってほしい」と北大路さんが冗談っぽく言う。美しいかはわからないが悪くない光景だと思う。わたしはよく知らぬ他人の噂話が嫌いだ。幼稚な考えだと釘を刺しておきつつ、心の底では自分の一切を他人にどうこう言われたくないと思っているし、他人のことをとやかく言いたくもない。

自分の見た、感じた、近しく親しい範囲に心を砕きたい。できるだけ繊細に切り取って。わたしの築いた生態的地位(ニッチ)だけ。そしてあなたのニッチも聞きたい。ひとつだけある地位。孤高の生態。そんな姿を互いに語ることができれば、聞くことができれば。それは「美しさ」にもなり得るだろうか。自己を押し込むためではなく、ただ、あなたとわたしの存在する位置を確からしくすることばだけを。

と思いつつ、どうも「自分の話」が苦手なところもある。素直に心をひらけない。「ラストトーキョー」はちょうど芝居っ気のない素直な人々をよくうつしていた。NHKのディレクター柚木映絵さんによるセルフドキュメンタリー。つまり、まるごと「自分の話」でもある、そんな構成。

カメラの介入によって生じる特有の素直さもあったかと思う。突っ込んだ内容でも余計な意地や見栄を張らない、なだらかな柚木親子の会話が心地よかった。それぞれの年月がじんわりと重なりなじみあうような会話の運動が見てとれる。

「新宿の地下には主が住んでいて、人々の足音を食べて生きている」という、柚木お母さんの想像力にはっとする。「新宿のネズミ」を自称する母親。それは彼女が生きた場所で築いた、生態的地位の名である。

はぐれた感覚。あぶれた人々。わたしもそう。他人が何の気なしに「みんな」と口にするとき、その無邪気なくくりに自分は含まれていないのだろうなと思う。テレビをつけてもラジオを聞いても、底冷えするような空々しさが滲み出してくる。マスから、どこかで決定的にはぐれてしまった。「みんな」に焦がれる気持ちと、含まれたくもないヒネた思いの両面で距離を測っている。

しかし、どんな“はぐれ者”にも居場所がある。「いる」とは、弱さなのだと思う。居場所はそれぞれの弱さが附合する場所のことだ。弱いところに人は居着く。そして弱さでつながる。「ここに居たい」と思える場所には、自分の弱さがあらわれている。シーンとして露頭する新宿の人々の居場所は同時に、人々の弱さの形態でもあった。

いっぽうで人間には仲間の不在を受け入れる強さがある。みずからもまた、いつでもいなくなれる。そこに人の切なさと心強さがある。愛しさも忘れてはいけない。いないものを思える。「いる/いない」の認識がそこまで截然と分けられてないのだろう。フィクショナルな次元でつながりを保てる強み。

言い換えれば、移動できる強みだ。遥かむかし、ご先祖さまがアフリカからえっちらおっちら歩みを始めた強みだ。いまもまだわたしたちは飽きもせず歩いている。ひとつの場所に居続けることはない。歩みを止めては新宿の地下で足音を食べる主が飢えてしまう。

いつもたくさんの人が歩いている。新宿へ行ったら思い出して、ちょっとだけ足音を大きくして、想像してみる。みんなが新宿の主に足音の餌をやっている。そんなくくりの「みんな」の輪の中へなら、わたしも入れるから。いい話を聞いた。




コメント

anna さんのコメント…
九州生まれで関西住みの私には、地下に主が住んでいるっていう新宿の特殊性は、なんとなくしか理解できないですが、「人々の足音を食べて生きている」っていう表現は面白いなあと思います。
でも、「ウォシュレットの設定変へた奴殺し」たくなる気持ちは理解できます。
nagata_tetsurou さんの投稿…
お生まれは九州なのですね。台湾かと勘違いしていました。わたしは関東と九州に深い縁があります。ここ数年で関西にも多くの縁ができました。新宿にもずいぶんお世話になってきた。でも自分の居場所はわかんない感じもします。歌舞伎町はわたしの感覚だとぎゅっと狭い。そのひしめく「狭さ」に独自の雰囲気が宿るのだと思う。足音を食べる主もいそうな。

ウォシュレット、さいきん家で初めて使ってみたんです。勇気を出して。覚悟はしていましたが「あぁん!」と変な声を上げてしまった。ちょっと敏感なのかもしれない。もう二度と使わないと思います。そのとき設定を変えていました。あとから父に「殺す」と思われたのでしょう。