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日記700



8月14日(水)


朝、鏡を見ると左目の下に涙ぼくろができていました。以前にも書きましたが、ほくろが増えます。なにかの呪いでしょうか。虫を殺した数だけ増えるとか、他人に不義理をはたらいたぶんだけ増えるとか……。

さいきん不義理したおぼえはないけれど、コバエはじゃんじゃん殺しているので原因が虫殺しである可能性は残ります。いや気づかぬうちの不義理も多そうです。そういえばこの暑いのに暑中を見舞っていませんでした。だれひとりとして。2名からハガキが届いていた。暑中の舞いを部屋の中でひそやかに踊っておきますから、それでご勘弁ください。

できうるかぎり義理堅くありたいと念じながらがんばって踊ります。汗だくで。ほくろを増やさないためにも。義理は重視しておこう。しかし「義理」というと悪く思われがちです。「心のこもらない行為」みたいな意味が前に出過ぎている。「心」はうしろからついてくればめっけもんです。あくまでめっけもん。おまけ。心よ、出しゃばるな。

わたしの「義理」イメージは、容器です。カラの容れ物を関係のあいだにぴょいと据えつける。それが義理立てだと思っています。余裕があればそこに「心」を加えるもよし。からっぽでもよし。「心」よりも義理という形式をまず立てる。

お互いを受け入れるための共通の器が最初になければ、いきなり心をこめられてもどうすればよいものやら戸惑ってしまいます。渡された「心」の保存方法がわからない。べたべたしてやだなにこれキモいと思う。事前に義理を立てておけば、とりあえずそこに突っ込んどけばいい。義理立てとは、心の容れ物づくりです。

というかそもそも「心」とはなんでしょうか……。ひとつの側面として「出過ぎた意識のつんのめり」みたいなものかと、自分の感覚では思います。とにかく出過ぎな野郎です。意識よりも先にとりあえず目に見える部分をととのえたい。かたちだけでいい。たとえば、とりあえず身体を鍛える。筋トレの習慣も何らかの義理です。




話をほくろに戻します。

左目の涙ぼくろ以外にも知らぬ間にたくさん増えすぎて、しばらく会っていない人はもはやわたしを前と同じ人間だと認識できないかもしれません。双子の弟だとうそを言っても通用しそうなほどです。兄のことを問われたら「あいつは死んだよ……」と目を伏せてつぶやきます。

双子のタレント、マナカナの見分け方としてほくろの有無がよく言われます。左目の下にほくろのある個体がカナです。が、わたしもこのたび左目の下にほくろができてしまいました。ということはわたしをカナとかんちがいする人も今後あらわれそうです。カナとわたしの見分け方も早急にこしらえなければなりません。

そうですね……。強いていうなら、乳輪に毛の生えている個体がわたしです。乳輪の毛によってわたしの自己同一性は担保されていますから、カナとわたしをまちがえて絡んでくる手合には「この乳輪の毛が目に入らぬかーッ!」とシャツを脱いで見せつけてやります。すぐに気づいて道をあけてくれるはずです。海も割れるはずです。空も飛べるはずです。カナさんも安心してぐっすり眠れます。

たとえ時を経てわたしの性格や身なりにおおきな変化があっても、乳輪の毛だけは変わりません。いつだって両の胸に存在している、わたしがわたしである証拠。いずれ全身ほくろにまみれて真っ黒になっても、老いさらばえて死ぬ間際でも、乳輪の毛があれば「あいつだ」とわかってもらえるから。水死体になっても轢死体になっても変死体になっても乳輪の毛で識別できます。そこにわたしが眠っています。

わたしのことは乳輪の毛に任せて、ほかは自由にやらせてもらう。乳輪の毛以外わたしじゃないの。責任能力は乳輪の毛が担う。もうそういうことなんだと思う。乳輪の毛のおかげで、わたしもぐっすり眠れます。




ところで、ぬか漬けはじめました。といってもかれこれ1ヶ月以上は前です。味が変化するのでおもしろい。まいにち欠かさず混ぜています。「よーしよしよし」と言いながら。ペットのようにかわいがる。食べちゃいたいくらいかわいいぬか。というか食べちゃう。ぬかさえあれば寂しくありません。健やかなるときも。病めるときも。

よく参照する料理サイト、白ごはん.comの記事に従って最初はやりました。白ごはんさんの言いなりです。そこにあった通り、実山椒を入れると風味がいい感じに立っておいしくなります。ほかには煮干し、干し椎茸、鷹の爪なんか適当に入れて。これからどんどん良いぬかに育てよう。ぬかには良さしかない。いいな~。手放しでほめることのできる数少ないもの。

そんな良きものを、うちの父方の祖母はなんら躊躇なく捨てたそうです。母親から受け継いだ熟成ぬかだったらしい。いわく「めんどくさい」。「お勝手が嫌い」と若い頃から料理をあまりしなかった我の強い女性。いまも「お勝手が嫌い」とまいにちのように話してくれます。好き嫌いは措くとして、そう、台所は「お勝手」と呼びたいところです。

たしかにめんどくさい。それはわかる。でもなんとかつづけています。できるなら一生かけて添い遂げたいと思う。いまはそんな気持ちです。瞑想のように目をつぶってひたすら混ぜています。まるで只管打坐の境地です。指をいれるとすこしぬくもりがあって、「生きているのだね」と思う。それが愛おしい。生きとし生けるものを慈しむような思いになる。精神修養としてのぬかです。

うそ。ただなんとなくはじめました。




コメント

anna さんのコメント…
おおっ!ぬか漬け美味しそうです。白ごはんにぴったりですね。
因みに、前回のRe:コメントですが、私は台湾生まれではなく、私の母が台湾人なのです。
そんなんで時々母の実家の台湾に顔を出します。
nagata_tetsurou さんの投稿…
塩気は控えめで、まろやかなぬか漬けです。酸味の強い時期をのりこえて丸い味になりました。お母さまが台湾の方でしたか。侯孝賢やエドワード・ヤンの映画が好きなので台湾には親しみを感じます。わたしにとっては映画の中の場所です、いまのところ。