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日記702



8月28日(水)


陽の落ちかかるころ、慣れない土地の住宅街をほっつき歩いていた。細い路地で、ふっと入浴剤の香りがした。通り過ぎるほんの数秒だけ。選んだ入浴剤がこの街の空気にもなることを知ってか知らずか。漂う。カルキと雨上がりの夜気が入り混じった、お風呂場の香り。たぶんヒノキっぽい。やや蒸し暑い夕刻だった。このおうちは、いつも欠かさずお湯を張るのだろうか。うちはもっぱらシャワーで済ませている。夏は湯船につからない。節約する。




ひきわり納豆を不器用な左手でかきまぜると、最初はうまくぜんぶまとまってくれない。ひきわりだとわかりやすい。粘りが途切れて、散らばる。箸先の遠心性をキープしつづけないと。利き手の右でなら、ちゃんと包括的に全体をかきまぜられる。

一定のリズムと速度で、お箸をまわす軌道をだいたいそろえてぐるぐるさせる。その運動の持続により粘りの重みがあらわれてくる。粘りを手繰ればたぐるほど、細かく割れたものが重みをともない寄り集まる。豆の細片は切れば切るほどよくまとまる。

詩人のポール・エリュアールは、詩の着想を得るために部屋をぐるぐるまわりながら民謡を歌っていたらしい。そんな逸話が『詩の誕生』(岩波文庫)という本にあった。谷川俊太郎と大岡信の対談本。たしか大岡信の発言だったと記憶する。

これがひきわり納豆をかきまぜるイメージと重なる。ことばをかきまぜるためのおこない。エリュアールはおそらく、民謡のリズムと速度に身体の軌道を乗せて回転することにより散逸する記号の断片を手繰り寄せていたのではないか。自己に内在することばの粘度を上げて接着させる運動、みたいな。想像すると奇行めいているけど、なんというか、詩人なんだからしょうがない。

あるいは盆踊りなんかとも重なる。音楽でぐるぐるまわって、なにかを寄り集めている。場に特有の粘り気と重みを生み出す。真夏の夜の遠心性に巻き込まれるものは何だろう。死者の魂のごときものかしら。よってたかってまわる。ゆるくまとまるリズムに乗って、ひとつの場所を曲がりつづける。見慣れているけれど、これもまた奇行のごとし。日常がわずかのあいだ非日常とかきまざる。

渦に半身を委ねる。渦がための迂路をたどる。まわる行為とは「うながしの形態」なのだと思う。詩のきっかけをうながしたり、夏夜の気分をうながしたり、納豆の旨味をうながしたり。片時、ほんのしばらくの。

ライブをみた。
始まったその渦の中心には、片手が吊られていた。




これが両手なら管理や支配を連想したかもしれない。つかまえるための手。それかミスターマリックの手。片手は連れるような表象だろうか。吊られる片手に連れられる。片方だけの、置いていかれたみたいなその手が舞台をいざなう。すこしのあいだ半身をあずけてみる。片っぽの空位に身を寄せて。

ぼんやり思ったこと。他者と別れるかなしみの半分は、自分と別れるかなしみだった。身を寄せて、あずけていた自分。あのときの自分はもういない。しかし幸か不幸か、もう半分がいつも残っている。残された片手がまた、べつの片手を連れるようにうながす。その繰り返しで関係がまわる。

体裁は、もらすとしずむというバンドの音楽ライブ。しかし現場の中心にあったのはもの言わぬ片手、そしてもう片方の空位。強い主体が方向性を牽引しようとしない空間。ほかにダンサーおふたりとお笑い芸人が出演していた。けん玉ってむずかしい、と思った。そんなライブだった。




写真は舞踏/ダンサーのホシノメグミさん。
もうおひと方のダンサーは飯塚友浩さん。
お笑い芸人は、ハクション中西さん。

ごく個人的な印象として、ハクション中西さんのネタはすごく理知的な感じがした。きっちりハメてくる、というか。ぶっとんだ世界観でもちゃんと論理がついている。見たのはオチに飛ぶまでを着実に登っていくババアのネタ(+α)。繊細でやさしい語りだと思う。

ぜんぜんちがう印象を抱く人も多いだろうけれど、わたしには理性の階梯が見えた。しかしオチの「新世界より」へは理性じゃ登れない。特有の嗅覚。さいごの跳躍が「自称・天才芸人」たるゆえんだろう。

あと、ほんとうに気持ちよさそうに「ババア!」と叫ぶ。ほんとうに気持ちいいんだと思う。自分でもやってみるとわかる。「ババア!」と全力で叫ぶのは気持ちがいい。





オチまでは単独で突っ切って、ラストに誰もが聴いたことのあるクラシック音楽へ文脈を拡散する。半ばドヴォルザークにあずけるかたち。でも見ている側は安心してそこに身を置けない。その曲、知ってるけど、なんか気まずい。馴染みがあるようでない。どうしよう。居心地が悪く既知の曲を異化するおもしろみがある。って野暮な説明を書きすぎか……。




最初からさいごまで、信頼にあふれた時間だったと思う。信頼には「賭ける」側面もある。先の見えない暗闇に身を投げ出すような賭け。きっと演者も観客も隔てなく賭けの対象になっていた。必要以上にコントロールしない。それぞれがそれぞれの持ち場をまわして賭けられた時を演じ切る。自分の持ち場。そう、これを書いているわたしの時間もまた賭けの俎上にある。

歌や踊りは日常的なコミュニケーションの水準から見ると身勝手で排他的なものだと思う。歌う人・踊る人とはふつうに話ができない。中断させるほかない。お笑いのネタもそう。こんかいのライブはその身勝手なものを一段上の「ステージ」として合理化するのではなく、できるだけ身勝手なままの地平でやってみる試みのように思えた。

ホシノメグミさんが至近距離を歩いて通るときに感じた強い排他性。斥力を湛えた歩き方。たぶんどう引き止めても待たないであろう。踊る人は待ってくれない。コミュニケーションをとろうとするなら、こちらも同じ言語で、つまり勝手に踊るしかない。

わたしの動作は固くて、どうしようもなく社会集団の文脈に縛られている。声の出し方まで。管理の論理がこびりついた身体。これでは気詰まりなコミュニケーションしかとれやしない。勁く張り詰めた身体操作との差をじかに感じ、同時に自分を省みることもできた。

つくられていたのは一個の主体性をうながす片手が中心の渦。あなたには何ができますか?と。わたしの感じた排他性とは、空間の中で他者の存在が他者だけの位置をつねに占めているというあたりまえの排他性だった。物理的な身体の排他性。あたりまえすぎて、ふだん意識にのぼることはない。「いる」ということ。

といっても、強力に突き放すわけでもない。一方ではつられてもいい。手をふって連れてくれることもある。いっしょに「新世界より」を歌ったように。片側にある引力と、片側にある斥力のあわいでゆれる。引きつける力と、しりぞける力が絶えず入れ替わり立ち代わりまわっていた。そんなライブ。なんかよくわかんないな。

終わってから食べたカントリーマアムがやけにおいしかった。ちょっとお酒を飲んで、帰りの電車で寝てしまう。電車で寝ることはめったにない。疲れていた。開場の前に公園のアスレチックであそんでいたせいだろうか。ターザンロープは思いのほかスピードが出て、めっちゃこわかった。




コメント

anna さんのコメント…
ババアでドボルザークの9番の新世界を歌われると、ババアと呼ばれる可能性が高まってきた年齢の私からしたら100%笑えなくて「う~ん。。。」となってしまいました。
なお、私は納豆をぐるぐるかき混ぜるときは、ベートーヴェンの交響曲7番の4楽章を熱狂的に口ずさみます。
nagata_tetsurou さんの投稿…
わたしもそんなに笑えないんです。ゲラゲラ笑えるタイプのおもしろみではなくて、変な感想かもしれませんがちゃんと人間を描いている感じ。人間ってこういうとこあるよ。うん、あると思う。あるあるネタです。人間あるある。ないですか(笑)。いずれにせよ、「笑う」以外にも見方はたくさんあります。広く「表現」として見たいですね。

ベートーヴェンの交響曲7番4楽章は、いま初めて聴きました(たぶん)。たしかに納豆混ぜてそうなグルーヴかも。ときおり発泡スチロールの容器に箸を刺したくなりますね。あるいは容器ごと握りつぶして床にぶちまけてその上に寝っ転がってゴロゴロネバネバしたくなります。「もうたべなくていいや~」みたいな気分で。人間ってそういうとこあるから……。

どうでもいいけど、ドヴォルザークを聴いたり歌ったりすることを極私的に「ドボる」と名付けました。いま。
anna さんのコメント…
「ドボる」いいですね。因みに、学生オケの定番のドヴォルザークの交響曲第8番は略して「ドボはち」っていいますねー。
nagata_tetsurou さんの投稿…
すごい、はじめて知りました。野球で8番ライトの選手を「ライパチ」と呼ぶみたいなものですね。『ライパチくん』という漫画もあります。環状八号線を「カンパチ」と呼んだり、ハメ次郎の珍笛ひずみ8号を「ひずハチ」と呼んだり(漫画『ピューと吹く!ジャガー』より)、そういう類の略称ですね。