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日記703




死んでる蝶と、生きてる蝶。

だいぶ前にみた草間彌生の作品に、「死の美しさ」というタイトルがあった。彼女のすべての作品がそうであるように、なんだかわからないやつ。たぶん臨死状態に至って初めて「あれ?この感じ草間彌生のやつじゃん!」となるはずのやつ。進研ゼミでやったところだ!みたいなノリで。芸術は死の予習。あるいは復習。

だが果たして、死の感覚は美的なものなのだろうか。死んじゃう感覚。ほんとうはたいしたことのない、拍子抜けしちゃうようなおマヌケなものかもしれない。生理現象のひとつに過ぎない。屁が出るような感覚の。あ、でちゃった。やだわ。コレデオシマイ。

どうであろうがわからないし、それに人間はなかなか果てない。自分をかえりみても、思っていたより果てない。しぶとい。しぶとい鼻毛だ。しかし鼻毛を抜く行為が死につながる危険性もあるらしい。あんがいあっけない。このあっけないおマヌケさもふくめて、まさに鼻毛といえるだろう。わたしたちの生は鼻毛そのものだ。つねに死と隣り合わせの。ロシアン鼻毛だ。

どれだけ抜けたら死に至るのか。果ては見えない。果てのなさゆえ、そこに美しさも投影したくなる。魔がさすのだ。鼻毛も投影したくなる。あんまり果てが見えないせいで。ときどき最果てを見たふりをして、たのしんでいる。くさいものには蓋をして、ときどき開けてたのしむんだ。




藤田一照さんの『現代坐禅講義 ――只管打坐への道』(佼成出版社)という本を読んでいて、ふと「禅とか仏教とかって、自分らがいかにヒマかを競い合うような面があるのではないか」と思った。「競い合う」は語弊があるけれど、忙しない世の中と対比するイメージとしておもしろいからそう書いてみる。

本には「坐禅をしてもなんにもならない」とある。ぱっと見では坐っているだけ。そしてじっさい、なんにもならないらしい。思うに、ヒマのなせる技である。「ヒマ」とは言い換えると、「やってない」ということだ。

ついつい気がつけば「やってるアピール」をしちゃう自分がいる。あれをやってる、これをやってる。俺はやる。やるぞ。やってやる。やってやるってー!!もはや越中詩郎と化している。人間サンドバッグである。サムライ・シローさんである。それはそれでかっこいいおじさんなんである。悪くない。





逆に坐禅は、「やってないアピール」だ。いや、アピールすらやってない。なんにもやってない。「やってない」をやる。やばい、禅問答みたい。坐禅の話なのだから自然な流れか……。しかし坐禅も「やってる」うちには入りそう。「やってる/やってない」の二項対立では埒が明かない。

生きて動く以上、人はつねに「やってる」のだ。生き物をやってる。そこへ屋上屋を架すごとく、なにごとかを為そうともする。坐禅に成果はない。ただひたすら生き物をやってる自己の輪郭をなぞる。現在ある命をやってるままにやることなんだろう。

そのためにまず、身体にこびりついた「やってるアピール」を削ぎ落とす「やってない」の導入から始まる。これが坐禅の姿勢となる(めちゃくちゃ独自の解釈です)。現在時とからまり合う身体のかたち。ただ一糸の時をまとうように坐る。時の流れの顕在化したかたちがすなわちわたしとなる、そのような形式に身を委ねる。

やってないようで、幽かにやってる。
ようするに、ものすごく入りづらい居酒屋みたいなオーラをまとう姿勢だ。

このところ、まいにち30分の瞑想をする。坐禅ではない。瞑想ともいえないかも。ただ坐って、目を閉じて、ぼーっとする。タイマーをつけて。むろん、なんにもならない。ヒマなだけだ。30分はけっこう長い。でも上には上がいて、達磨大師は面壁九年の坐禅により手足が腐ってしまったのだとか。伝説のヒマ人である。ヒマが過ぎる。いくらなんでも。

日に30分は、ただひとりの生成原理を矯めなおす時間がほしい。積極的なヒマをする。「発酵」ともいえそう。達磨さんの腐った手足は誠実に発酵したのだと思う。日々との相互浸透の結果。過ぎゆく時間をノイズの渦から、ある説得力をもった塊に変えること。元は単なるノイズだったということも強く念頭に置きつつ。

「ヒマをする」は「時間を創出する」とも言い換えられそう。




それはおそらく意味の創出でもある。ひとつ前の記事に書いた、ハクション中西さんの「ババア」について考えていた。お笑いにかぎらず、自分にとって広くなにかを見るおもしろさは意味の付与にある。なんであろうがそこに思いも寄らない意味があれば、おもしろい。「ババア」のネタはまさしく思いも寄らない意味をわたしの認識にもたらしてくれた。

意味とは光だ。「我々の知る限り、人間の生存の唯一の目的は、単に存在することの暗黒に、意味の光を灯すことである」というユングのことばを想起する。どんなにくだらないネタであろうと、そこにはひとりの人間の見出した意味の光が宿っている。

踊ることも歌うこともまた同様に意味の光となる。すぐちかく、手の届く範囲にそれらが散乱するひととき。「単に存在することの暗黒」と地続きの暗がりの中。まだ手つかずの、かたちづく前の意味に手をつける。現在というまっさらな時間の新雪の上に身を置いて。ライブのおもしろさはたぶん、そんなところにある。文字通りのライブ感。




勝手な人が好き。身の程の勝手を知ったる人。荻原魚雷さんの『古書古書話』(本の雑誌社)を読んでいたら、文学とは「勝手放題なネゴト」の異名、という辻潤のことばに出くわした。その勝手放題なネゴトがごくまれに人の救いにもなりうるのだと、そう思う。しかし、かんちがいしてはいけない。あくまでそれは「勝手放題なネゴト」であり、偉いもんじゃない。


 『辻潤選集』は九百項ちょっとある。単行本未収録エッセイも数多く収録されている。無内容というか、ほとんどが愚痴や弱音だ。しかし誰が何といおうが、わたしはそういう文学が好きなのだ。
 辻潤は、文学とは「『勝手放題なネゴト』の異名」という言葉も残している。「生まれた以上、人間は自分の与えられた運命(たいてい碌でもないが)を忍受して生きていくというより仕方がない。それ以外に、なんの方法もありはしない。さんざんありもしない知恵を絞って考えた結果が、たったそれだけではまことになさけないが、如何にせん自分にはそれが実感なのだからどうしようもない」(「妄人の秋」/『辻潤選集』)pp.230-231


「それ以外に、なんの方法もありはしない」。ほんとうにどうしようもないね。でも同時に胸がすくような。粘り強さを感じる。寝ずにネゴトを綴ってみせるわざも才能のたまものだろう。あるいは江戸川乱歩の書いたとおり「うつし世は夢」ならばネゴトはいたってふつうのこと。ここにあるのもおおよそネゴトです。




コメント

anna さんのコメント…
あっ!そーだったんだ。達磨さんの手足がないのは、9年間の座禅で手足がくさっちゃったせいなんだ。今、知りました。
ひょっとして、こういう「あ。今まで知らなかったけど、今初めてわかったー」ってのがユングの言う「光」なんですかね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「面壁九年」という四字熟語はその達磨さんの故事に由来するものですね。忍耐強く努力するの意。「九年」とは関係なく「努力した」の意味でつかえますが、「九年もがんばったのかー」と誤解される可能性もあります。

事実か否かはしらないけれど九年も坐るのはえらいこっちゃです。伝説的なえらい行者はみんな、えらいヒマ人だと思います。解脱とはつまり、ヒマになることではないか。ヒマとは何か?をかんがえてみるとおもしろいです。うるう年に気づいたやつのヒマさ加減を想像してみる。こんな曲でも流しながら。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm3276715

「光」。自分の念頭にあったのは「わかる」よりも「ある」と思う感覚かな。「見出す」もちかい。見出されてある。選ばれてあることの恍惚と不安、みたいな(笑)。わたしの文章は多分に感覚的です。知的でも論理的でもないあやふやなものに基づいてしゃべってるから、自分でもよくわからない。