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日記704



日常的に写真を撮りながら、なにを撮っているのかいまいち判然としない。「こういう写真を撮っています」みたいな説明がむずかしい。なんとなくのカテゴライズだと「過ぎたもの」が多い。痕跡。主体が消えて、あとに残ったもの。

もう誰もいない。置いていかれた。ついていけなかった。捨てられた。はぐれてしまった。余分なもの。でも、まだ居残っている。迷子のように。そうしたものに共感がこもる。共感なんだと思う。

「まだある」ということ。まだだ、まだ終わらんよ。そう、終わらない。誰かにとってはもう、必要なくなったらしい。だけど、あなたはまだつづいているね。わたしもおんなじ。それはたとえば道端に置かれた飲みかけのアイスコーヒーだったり。よく見るとMサイズ。

あとはもうざっくり「いい感じのもの」を撮る。




人間の心理は自動的に流れる。時間とおなじように。たいてい意志に依らず流されている。つい無意識にやってしまう行動は多い。抵抗はむずかしいけれど、ことばが心理時間の流路をつくる仕切りになりうるのだと思う。


「二つある」と彼は言った。「まず、宇宙全体をきちんとするなんてことはできないと認めること」


「そうして二番目は、それでもほんの小さな領域を、まさにそうあるべき状態にするということ。粘土の塊とか、四角いキャンバスとか、紙切れとか、そうしたものを」


tumblrでみかけた引用。ヴォネガットの講演『これで駄目なら』(飛鳥新社)より。本は読んでいない。古書店で買おうか迷って買わずにおいた記憶がある。お金がなかった。円城塔さんの翻訳。興味深いのは、順番としてまず「できない」が最初にくるところ。

最初にあきらめちゃう。でもそれは、ごくあたりまえのことだった。自分が宇宙全体の中心を担っているわけではないのだから。やりようがない。どうしようもない。しなくてもいいことは、べつにしなくていい。わたしはとてもちいさい。

そうやってひと通りあきらめたのち、残った少しの領域に手をつける。そこへ線を引く。あーでもないこーでもないと。気長に引きつづけること。粘土なら練りつづける。角を立てたり、切り離したり、くっつけたり、包み込んだり。それが「まさにそうあるべき状態」としての、流れを仕切るものとなってゆくといい。

おおきな「わからない」のなかに、ちいさな「わかる」を細かく刻む。わけられない世界の混沌を、試みにちょっとずつわけて自己のかたちに仕切っていく。そんなお話かな、と思う。だいじなのは、ベースにある「できない」だろう。きっちり自分を見限って、ちいさくはじめること。

「わからない」がつなぎになる。いつまでもわからないから、いつまでもつづく。なぜか、つづいてしまう。それはきっと「永遠」とも言える。切り離せない。わけられない。わけがわからない。わかるものはとてもすくない。もしかすると、わかるものなんかひとつだってないのかもしれない。「人間は永遠のなかに存在している」と西脇順三郎は書いていた。自分の文脈に則して言い換えるなら、「わからない」のなかに存在している。


人間は永遠のなかへ生れ、永遠のなかへ死んで行くのだと思う。しかしこれも生物の宿命であって、どうにもしようがない。生物のどんなに短い生命の時間でも、永遠の時間の一部分であり、またどんなに小さいものでも、永遠の空間の一部分であると思う。


手書きの読書メモが雑で、出典がわからない。たぶん図書館で借りた、講談社文芸文庫の『野原をゆく』だったと思う。これに加え、「永遠への路傍に灰色の影をなげている」というフレーズが抜き出してあった。試行錯誤した「まさにそうあるべき状態」の痕跡が灰色の影となり、それは永遠のうえの残像として漂いつづけるのだと思う。




この身は著作権フリー、二次創作可の感覚だ。私や私の作品について不明な部分は、私以外の人が如何様にも想像できる。その余地を残しておけば、私自身が人々の公園になるかもしれない。彼らは私に設置された遊具で楽しんだり、元から撒かれている砂を使い更に城を作ったりする。そんなものは私の表現でなく人任せだし、中には危険な遊び方もあるが、任せた先に私がたくさん出来上がることを、そしてその過程がより面白いことを、私はいくらでも期待する。p.273


2019年10月号の『文學界』より。諭吉佳作/menさんの頁。肩書はシンガーソングライターでいいのかな、16歳の。上記の文章を読んで、魚川祐司さんの『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)を思い出した。この本で語られる「悟り」にすこし似ている。

己自身も含めたあらゆる現象が「公共物」であるとする、その覚知が「悟り」だという。うろ覚えだけど、そこからさらに「遊び」も重要な概念として記述されていた。「この身は著作権フリー」「私自身が人々の公園になるかもしれない」という諭吉さんはかなりちかいところを目指しているのだと思う。

「悟ってる」とまでは言わないが彼女はいまをただ、遊ぶように生きているのかもしれない。未来の自分の価値のためではなく、ひたすらにいまをよく遊びたいだけで。自分をすっきりと見限っているような。そして、振り切る。





“唯一つの赤が僕を急かすけど”


音楽家にはこういう人が多い気もしつつ。わたしもあわよくばおおきな公園になりたいものです。ちいさくてもいいか。いまをよく遊びたい。写真は自由につかってもらってかまわないつもりで載せています。許可なんていらないよ。誰かが写っているやつはその限りではないけれど。ほとんど人間は写していないな……。パクってもらえるとむしろうれしく思う。いっしょに遊んでくれるといい。自分の預かり知らぬところでもね。『文學界』2019年10月号、このつぎの頁は金井美恵子のエッセイでした。



コメント

anna さんのコメント…
宇宙全体になんかすることはできなくて小さな領域をどうにかするのは、そのとおりだろーなあと私も思います。でも宇宙全体になんかすることができないことに「あきらめ」はいらないように思うんですが。あきらめは無くても小さな領域にはなんかしたいですし。何言ってんだかわかんないですね、わたし。
唯一つの赤から急かされる気持ちは何となく実感できてよくわかりますが。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「きちんと」ですね。その語感からわたしは「完璧主義」を連想します。実際的な宇宙よりどちらかといえば比喩的というか寓意的なイメージから書き起こしたようです(セルフ読解)。

あとこれは引かなかったのですが、「ニーバーの祈り」もよぎりました。

“神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、
変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。”

「あきらめ」と書いた感覚は、ここでいう「変えることのできないものを受け入れる冷静さ」なのです。ヴォネガットの文脈につなげると“So it goes”です。バカボンのパパのセリフなら「これでいいのだ」となります。

自分で書いたものでも、つっこまれると読解が必要ですね。書いた人はたいていなんもわかってない。教えてほしくて書いています。ありがとう。
anna さんのコメント…
あっ、なるほど。「これでいいのだ」って意味なんだ。納得です。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「納得」もらえてよかった(笑)。ネガティブワードをポジティブに再定義していることがよくあって、わかりづらいんです。暗いようで明るい。悲観的に見えたとしても、じつはとても楽観的な気持ちでいます。
anna さんのコメント…
全然違う話ですが、今度、ちょっと前に話題になってた「ショーン・タンの世界展」を京都駅の伊勢丹の美術館でもやるらしいです。見てきますねー。
nagata_tetsurou さんの投稿…
京都駅の伊勢丹だと、木陰にたたずむような東京のちひろ美術館とはまたちがった雰囲気になりそうですね。たのしんでください、素敵な展示です。
anna さんのコメント…
ショーン・タンの世界展に行ってきました。面白かったです。みんなストーリーのある話なんですね。
映画というか動画も上映してくれてて、見入ってしまいました。
アライバルのオタマジャクシに手足が生えたような猫みたいなやつ、かわいい。
nagata_tetsurou さんの投稿…
さっそくですね。お早い。

『内なる町から来た話』(邦訳仮題)の蝶やムーンフィッシュがつよく記憶に残っています。ちいさなものをぐっと壮大に描いた感じの。うさぎの話もおもしろかった。

動画はアニメーションとショーン・タンのインタビューがありましたね。とかく、かわいいものには癒やされます。ショーン・タン本人もなんだかかわいいおじさん。アニメ動画の前でいちゃつくカップルまでかわいかったな。