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日記706



9月23日(月)


9月はトークイベントに、2回。気分が落ちているとき、専門家の話をゆったり聞くと活気づく。行き詰まりがちな意識の消化が促進される。勉強にもなるし、ひとつ良い対処法をみつけたと思う。十代のころは閉じこもって深夜ラジオの録音をえんえん聞いていた。それの延長か。

都甲幸治さんと五十嵐太郎さんのトーク。神保町ブックセンターにて、「現代建築と現代文学」。アメリカ文学研究者の都甲さんがゲストを迎えてお話する『世界文学の21世紀』というシリーズの四回目。自分が行くのは初回の「ヒップホップと現代文学」以来。そのときと比較すると、ずいぶん腰を据えてじっくり話し合う回だったと思う。

都甲さんは見た感じ、ご自身の好きなポイントから話を始める。メモを参照しつつ。パーソナリティが先に立つ語り出し。対して、五十嵐さんは資料的な堅い知見から積み上げるように語り始める。主観的なパートは、まず脇に措く引いた語り口。たぶん、そんなおふたりの遠近感が徐々に噛み合ってじわじわと落ち着きが醸成されていた。

日が経ってしまったため記憶があまりない……。やはりすぐに書き留めないといけない。反省する。「村上春樹の小説は、近代から現代にかけて生じた人間の苦悩をつかいやすくパッケージ化している」というようなお話が印象に残る。

伝播力の高い物語は、ひとつの時代の感情のいれものとして機能している。それを軸にべつの時点からまたべつのいれものがつくられる。行き渡った国際様式が、さまざまな地域でローカライズされる。読まれれば、書かれる。いれものからいれものへと感情の形式が書き注がれていく。

お客さんはどちらかというと建築系の方が多かった印象。質問が建築寄りだった。わたしはただ、気分転換に来た人間。どちらにも興味はあった。ことしの初めに、平田晃久さんの『建築とは〈からまりしろ〉をつくることである』(LIXIL出版)という本を読んでいた。薄めで、密度の高い本。ソリッドな文章は「建築家っぽい」となんとなく思う。


都市とは、限られた地表面に対して表面積を増大させるはたらきである。p.48


こんなふうにことばをするりと抽象化させる記述は気持ちがいい。抽象は連想の隙を呼び込む。表面積が増える理由のひとつは、流入するものを消化・吸収するためだろう。まるで腸壁のように。膨大な人口の消化と吸収を繰り返す生きものとしての都市が浮かぶ。動的な生命のいとなみを基礎に、すべての空間を捉え直すような本だった。

平田さんは、知性とは「モジュール間の流動性」であると書いている。汎用的な抽象化。たとえば、「森や植物に関する博物学的知性+技術的な知性=農業の発想」というような、まとまった視点の組み合わせからあらたな発想にいたる創発を知性と呼ぶらしい。

それはきっと、知らずしらずのうちに起こる。知性は知らぬ間にからまり合ってしまう。知らずしらずの知。忘却にも似たはたらき。密通。「記憶の人フネス」を思い出した。眼前のすべてをたちどころに記憶するフネスには、大して思考の能力がなかったという。強い記憶の力は、静的で孤独だ。相互にからまり合うことがない。


 彼は苦もなく英語、フランス語、ポルトガル語、ラテン語などをマスターした。しかし、彼には大して思考の能力はなかったように思う。考えるということは、さまざまな相違を忘れること、一般化すること、抽象化することである。フネスのいわばすし詰めの世界には、およそ直截的な細部しか存在しなかった。  J.L.ボルヘス『伝奇集』鼓直訳(岩波文庫)p.160 


だれかと愉しく会話をしているとき、人は自他の輪郭をうっかり忘れてしまう。会話を愉しむことは「相違を忘れること」にあたるのだと思う。相違を強調するばかりでは話にならない。ちがいを鮮明にしたい気持ちはたぶん、会話をする意志がないサインだ。相違の強調は独白である。自己告白をしている。そう思えば腑に落ちる。何か動かしがたい「強い記憶の力」で、思考を堅固に鎧って。

相違に敏感な「強い記憶」とは、極めて理性的なもの。チェスタトンが「狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」と喝破した、その理性。記憶の人フネスはとても理性的な狂人だった。

相違は、つねにある。どこにでも。ひとりきりでいる、そのことに気づけば立ち現れる。会話中でも不意に「ひとり」が象られる。理性は差異を鋭敏に読み込み、人を孤独にする。それは悪いことではない。

「私の芸術は、自己告白である」と画家のムンクは述べた。他のだれでもない〈わたし〉という、収まりの悪い卑小なものをごまかすことなくつぶさにみつめうるしぐさもまた人間の発揮できる知のひとつなのだと思う。それが芸術の始点になるのかもしれない。

記憶が流動化する状態とは、睡眠時に夢をみている状態とちかい。逆に理性的な「強い記憶」は覚醒時のもの。わたしは記憶を液体でイメージしている。夢は記憶の液相で、覚醒は記憶の固相にあたる。血液が絶えず身体中を循環していることを思う。そう、半ば以上は液体の運動として生きている。意識もまた液体のような物性を有するのかもしれない。

記憶を夢のように液状化させることが思考の能力につながっている。融通無碍なあやふやさで。しかし液状のままではかたちにならない。いれものが必要だ。覚醒時の手入れが重要となる。思考を表現するイメージのいれものを、できるだけたくさん仕入れるといい。

相違の忘却/強調。記憶の液相/固相。夢/覚醒。からまり合ってひらめく発想、切り分けることによりひらける眺め。いずれもヒトの知性の発露だと思う。なんだかいつも書いているうちに方向を見失う。かっこよくいえば、夢と記憶のあいだを揺蕩うみたいな感じ。みたいな。いま自分はどこにいるのか。神保町から、すでに帰宅していたようだった。




10月3日(木)


友人と新宿御苑を散歩した。大阪から所用で東京にきたからと、声をかけてくれる。ありがたい。二十歳を過ぎて働き始めてから、仕事以外で自分と会う時間をとってくれる人がいることへのありがたみが増したと思う。もちろんこのありがたみの底には、とてもせこせこした観念が植わっている。賃労働で切り刻まれた時間の感覚。

それとはべつに、なんだかみなさんとてもいそがしそうにしている(ように思っちゃう)せいもある。だれにだってほかにやることがある。優先順位がある。自分にも、何もないわけではない。しかし気持ちが急いてうまくいったためしなんてないから、意識して余裕をつくる。経験上、焦るとろくなことにならない。

御苑に入ったのは数ヶ月ぶり。台風の影響か、通れない道があった。ラクウショウの森のあたり。地上に突き出した気根は円空仏のようだと思う。そういう話をすればよかった。いや、そんなこと言われても「ふーん」としか返しようがないか。友人は、お坊さんをしている。でも職業のことはぜんぜん意識に上らなかった。そのほうがいい。




模索舎という本屋さんに寄って、御苑前のろまん亭でお茶して適当にお別れ。ずっと「らんぷ亭」と名前をかんちがいしていた。たしか、らんぷ亭もあったはず!と調べたら、牛丼チェーンの名前だった。

神戸らんぷ亭。
いまはもうないらしい。





尾のみじかい新宿の猫。江戸期以来の日本猫は、尻尾がみじかい傾向にあるそうです。浮世絵に描かれた猫のほとんどはみじかい。長い尾の猫は好まれなかった。妖怪「猫股」に化けると信じられていたせい、という俗説があります。うんちくおわり。

帰りながら、この日の会話を反芻していた。
「リテラシー」というものについてぼんやり思う。

「読む」ということは、いったん自分に保留ボタンを押すことだと思う。「聞く」もそう。「見る」も。自分勝手な判断はミュートにする。できるかぎり静かに対象へ身をおく。出しゃばることなく注意深く待つ。判断停止。エポケーである。ぽけーっと。ときどき気をとりもどす。はっとする。目をひらき受け入れて待つこと。それも注意深く。かつ、ぽけーっと。

書くときは、読み手のほうがずっと優れているつもりで書く。ぜんぜん覚束ない、及ばないと感じながらも、ぼちぼち書く。じっさいそうにちがいないし、書いたはいいがのちにちがうと思うこともしばしばある。未来の自分も読み手のひとり(未来の自分ほど信用ならん奴はいないが……)。ほかにも読んでくださる方がもしいれば、それはとんでもなくありがたいこと。

この態度が自分なりの「リテラシー」を形成する基礎なんだと思う。でも、おなじことを他人に求めようとは思わない。ただの性分かと思う。ひとつ引いた構えを保つ態度。キングオブコントの何気ない話題から、そんなことを考えたのでした。




観察的な態度がことばや行動の基礎にある人は信頼できると思った。『今和次郎 思い出の生理学』(平凡社)を読みながら。すべては観察から始まるのだとさえ思う。観察する人はおもしろい。というか、「観察」という行為そのものが魅力的にうつる。

よく見ること。立ち止まって。通り過ぎてもいいような、取るに足らないところに奥深いちいさな世界の入り口がある。観察によって見立てができる。見立ての合成があらたなものの見方につながる。見るべきものをつねに探すのだ。ひとりでも、おもしろがればいい。世界は隠れている。



コメント

anna さんのコメント…
なるほど。自己主張の強い人って、そもそも会話しようっていう意思がなくて独白なんだ。納得です。
猫のしっぽですが、私の生まれた長崎では短いかぎしっぽ猫が普通でしたから(調べたら80%はかぎしっぽらしいです。)、関西に来て、まっすぐで長いしっぽの猫を見て、「あー、猫のしっぽがまっすぐでながい!」って言ってしまったことがあります。周りからは、何言ってんだこいつって顔されましたけどね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
よくいえば、固有の世界観をつたえようとしているんだと思います。その人にとっての絶対。自分を脇におく、相対的な視座があれば会話がなりたちますね。「ひとつじゃない」ということ。

人の考え方はさまざまある。でも、わたしはたぶん、この世でひとりなんです。わたしであるのは、わたししかいない。両方あるんですね。

猫のしっぽの地域差、調べてみるとおもしろそうですね。日本猫は全体的にみじかいタイプが多いそうですが、東へいくほど長くなる傾向があるらしいです。かぎしっぽの猫は縁起がよいのですってね。

台風で野良猫たちのことがちょっと心配です。annaさんもお気をつけて。
anna さんのコメント…
台風の風が強烈。怖い、怖い、怖い。こんなに離れてるのに。
nagata_tetsurou さんの投稿…
きょうも風の強い日でした。青空。月がとてもきれいです。畏怖や畏敬も「おそれ」ですね。寺田寅彦が書いたように「正当にこわがる」ことをしていたいと思う。おそれを抱く。激しさにも、静けさにも。これは、まいにちのことです。「なかなかむつかしい」のだけれど。