写真はほとんど無思考・無目的で撮る。無目的性だけが本義。のはずが、ふりかえってみると共通性があって、一定の視覚の枠組みがほの見える。おなじ目的のもとに、おなじひとりの人が撮ったのだろうなと思う。くせがある。ふりかえれば撮影者の面影が浮かぶ。それがわたしなのかどうかは知らない。
人間をむやみに撮ってはいけないと思う。すこしだけ、禁忌に感じている。「魂が抜かれる」と父方の祖母が話していた。それに習ってか、父もおなじことを言っていた。わたしも幼少期から「抜かれる」と聞かされていた。みごとなすりこみ。
父は半ば冗談めかしていた。幼いころわたしはそれを半ば、本気にしてしまったフシがある。我ながら純粋に。祖母も半分くらい本気。「本気→冗談→本気」という流れの継承。3人とも「半ば」は共通。向きが異なる。本気のような冗談。冗談のような本気。
写真をずらずら並べると意味ありげに感じる。でも意味はない。なんだかんだ意味づけてみたくなるけれど、ほんとうは歩きながら目にとまったものを考えなしに拾っただけ。歩行中は、3分の1くらい寝ているのだと思う。無意識で歩く。いちいち意識しながら足を動かさない。視界もそう。勝手に過ぎる。歩きながらうつる風景は、夢の記憶の断片にちかい。
無意識を浚う。そぞろに浚われた断片を束ねる芯としてのことばが〈わたし〉というひとつのまとまりをかたちづくる。自分のことばで束ねなくとも、まとまった画がそろっていれば他人が勝手に統合してくれる。
名前と紐付けて、「この人っぽい」と。あるいは「路上観察っぽい」とか。「あれっぽい」「それっぽい」。既存の枠組みをあてはめて理に落とす。なんでもいい。わたしの名ではなくとも。
ことばは「埋めぐさ」の側面もある。意味のすきまをどう埋めるか。写真と写真のあいだを埋める論理はなにか。未だ意味するところのないすきまが意味の育つ触媒となる。常日頃、うまいこと空欄を埋めたいと思って、どこか気持ちがうろうろしている。
すきまの多い配置には意味をはめこんで整理したくなる。コンビニやスーパーの棚にある商品を店員でもないのにきれいに隙なく並べてしまうみたいに。几帳面に接続させたい。しかしこの世界にはいかんせん、説明のつかない空欄が多すぎる。飛躍だらけ。なんでそーなるの。
そういえば、テトリスが得意だった。ここ数年はめっきりやらなくなったけれど、あれも隙を埋めるゲーム。ブロック同士の整合性をつける爽快さがくせになる。自分にとっては文章もたぶん、テトリスみたいなブロックの埋めぐさなのだろう。
しかしきれいにそろわない。消えてくれない。がちゃがちゃ積み上がるだけの不揃いなテトリス。いつまでもやるせなく悩ませる。
としをとると記憶をとりこぼしがちになる。視野が狭まり、目の前の情報を見落としがちにもなる。おぼえない、見えない、聞こえない。さまざまなことがうまく把握できない。そのぶん、自分で埋める空欄の領域が増える。あたらしい情報は入らないから、これまでの経験でつちかってきた「埋めぐさ」をつかって、ものごとを解釈しはじめる。
同居している祖母を見ながら、そんなことを感じた。
さいきんの祖母は、ラグビーのことを「サッカー」と呼びつづけている。見慣れぬ「ラグビー」なるものをうまく認識できないらしい。ラグビーワールドカップが始まってからというもの、「これはサッカーなの?」「いいえ、これはラグビーです」と中学英語の教科書に載っていそうな奇妙な会話をする日々がつづく。
サッカー中継も定期的にやっているもんだから、余計に混乱するようだ。先日、サッカーを見ながら「これはサッカーなの?」と聞いてきた。「はい、これはサッカーです」と応じたところ、祖母はふと遠い目になり「サッカーは景観みたいね……」とちいさく漏らした。
どこか深淵さを感じて詳しく尋ねると、ラグビーは「試合っぽい」がサッカーは「景観みたい」だという。それがちがいだと言い張る。もはやルールの差ではない。細かな差異は認識できっこないと祖母本人も悟っているのだ。
そのうえでちがいを述べるとするならば、見た目的な「景観っぽさ」がサッカーであり「試合っぽさ」がラグビーとなる。らしい。微細で理解不能な視野は捨て去り、自分の目にうつる範囲の巨視的な差を漏らしたのだった。
そう、自分さえわかればいい。祖母の知見をそのまま他人につたえても納得させることはできないだろう。でもいい。サッカーは景観、ラグビーは試合。これでいいのだ。翌日にまたラグビーをさして「これはサッカーなの?」と聞かれたけれど、いいと思う。
いくらでも自分なりの差を探せばいい。ちがいはまだまだある、はずだから。いっそおなじでもそれはそれでおもしろい見方かもしれない。サッカーはラグビー、ラグビーはサッカー。無茶な理解のつけ方の中から妙に新鮮なヴィジョンが立ちあがる場合もある。
「サッカーは景観」なんて発想はなかった。たしかに細かなプレイをごっそり抜き去れば俯瞰の景観だけが残る。現実はさておき、祖母はみずから把握できるかぎりの世界をことばに落とし、つたえてくれたのだろう。これもひとつの「正しさ」としたい。
冗談めかしつつ、本気で受けとる。
育てている多肉とスコッチシダ。
定期的に載せたいと思いつつ忘れていました。
たまにシダをなでてかわいがります。猫みたいに。かわいいから。猫いらずです。なでると鳴きます。にゃーんと。かわいく。わたしが。多肉はダイソーの。両方ともいっとき放置して死にかけましたが、いまではすっかりもじゃもじゃです。
こういう記述はとてもブログっぽいと思う。
「この人、ブログやってる」と思う。
コメント
それから、写メ撮られて「魂が抜ける~」っていうのは一時期、私もよく言ってました。