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日記709



「カマキリ、カマキリ」と指をさして。遭遇するたび、こどもみたいに。生きているやつから死んでいるやつまで。ハリガネムシの死骸もいた。得意げに「これはカマキリに寄生するハリガネムシだね」と話す。虫で足取りが弾む。小学生の時分と変わらない。でもいい。虫、おもしろいじゃん。

虫はどこにでもいる。自分の部屋にもいる。昆虫全般をおもしろがることができれば、いつでもどこでもおもしろく過ごせる。ディズニーランドをベタに楽しめなくても、ディズニーランドにどんな虫が発生しているかは、すこし気になる。もしも綺麗サッパリ殺虫されてなんにもいないとすれば、それはそれで「夢」の徹底ぶりに感服する。と同時に戦慄をおぼえるかもしれない。

なにが無いのかを見る。それもおもしろい。視覚情報は刺激が強くて、目にうつる存在に気を取られがちだけれど、不在に気がつく術も「見る」という技のうちなのだと思う。そこにないものを想像すること。除かれたもの。いなくなった人。




自室にハエトリグモが2匹いる。放し飼い。群れないからいい。害もない。1匹1匹でそれぞれに這う。飼育せずとも勝手に生きてくれる。気もつかわない。いっしょにいてこれ以上にラクな生きものはいない。ほとんど関係がない。ただ、おなじ空間にいる。いなくてもいい。

挙動を観察するとおもしろい。口元をくるくる動かして小刻みに歩くさまは、かわいいと思える。なにかを探すようなしぐさ。気まぐれにあいさつしてみたり。名前をつけてみたり。さみしさの表現として。ではなく。

「おもしろい」がいつからか口癖になっている。書きことばでくりかえすと、枕草子かよと思う。いまもクモがカーテンを這う。午前1時。夜風が弱く入る。窓は昼間からあけっぱなしだった。照明を落とした部屋にカーテンの隙間から街灯がさす。ぼんやり明るむ。また暗くなる。明るむたび、ちょっとさむい。鼻の奥がつんとする。初冬の空気。ひやりとする皮膚の感覚。指の先がつめたい。末端冷え性。虫の声がひびく。散発的に。




湖のほとりで、ご年配の方々が集合写真を撮っていた。和気あいあいとたのしそうに位置を確認している。しかしカメラを向けられ、「撮ります」となると全員が一気に静まりかえるのだった。息を殺すように。空気が張り詰めるの。それがまたおもしろかった。

なんてことのない習慣的な光景かもしれない。でも変だ。写真に音声は入らない。さわいでいたってかまわないはずなのに。「魂が抜かれる」と本気で信じているかのよう。あるいは「いまからわたしたちは写真になるのだ!」という固い意志統一が図られるかのよう。

「写真に撮られる」のではない。もっとずっと能動的に「写真になる」。そのためにポーズを固定し、黙りこんで、時間を閉じこめる態勢に入る。生身の人間たちが息を殺し、写真と化す。緊張が走る。撮影が終わると脱力して、ふたたび歓談がはじまる。

「ほんとうはみんな無意識に魂が抜かれると思ってる」「タマとられる、と」「魂が抜かれないように息を止めるのかも」などと、その場で友人に話をした。でもいまは「写真になる」説が有力に思う。魂でいえば「抜かれる」のではなく、みずから「抜く」。抜け殻になる。

そんな演技をしている。写真になる演技。3次元から2次元になる演技。立ち位置を決める時点からすでにダウンコンバートの準備が始まっている。3次元世界から一瞬だけトリップするために。いなくなるのだと思う。ちゃんと構えて、ちゃんといなくなる。写真はそんな「なくし方」の表現形。撮影が終われば、ホッとしたように戻ってくる。

カメラを向けられることが苦手なわたしは、そのたぐいの演技が苦手なのだろう……。やろうとすると過剰なポーズになる。すこしのうそでいいのに。おおげさなうそをついてしまう。自分を殺し過ぎるのだ。なくし過ぎる。満面のつくり笑顔はよく、「ビンタしたい」といわれる。殺すなら完膚なきまでにぶっ殺す。がっつり殺されにいく。腹が立つほどの笑顔を差し出す。「さあ、こいつを殺せ」と。ちょうどいい感じのうそじゃ、くすぐったいから。大袈裟だね。

単になくなるものがいい。
撮る側としては、それがいい。

なくそうとしなくても。




つまらんいいわけをせずに済む関係をわたしは「親友」と定義している。たとえば遅刻のいいわけをするにしても「3mごえの長いうんこが出て、途切れなくてたいへんだったから」で通るような。四角四面の「正しさ」からは隔てられた、理由なんてあってないような関係を「親友」としたい。

お行儀のよい理解をすっとばしてもまわる、すみやかな関係。速いから短時間で遠くまでいける。わけわかんないくらい遠く。「電車が遅れて」とか「寝坊して」とか、そんなんじゃ、まるで遅刻しているみたいじゃないか。遅刻を超越するための、遅刻の向こう側をわたしは語りたい。

すでに遅刻しているとき「遅刻します」なんてあたりまえのことをつたえても仕方がない。そんなことはわかりきっている。もっと速度をあげて。遅刻のその先へ。ただでさえ遅刻しているのだから、ことばのうえだけでもぐんぐん気持ちを飛ばす。たとえば、このくらい。

さっきお花にお水をあげていたら、そこにあらわれた虹にみとれてしまって、あなたのことを思い出して、胸が苦しくなって、だからちゃんと救心を買ってきたんだよ、マツキヨでね、あとでいっしょに飲もう、乾杯だよ。セクシービーム(^_-)-☆
 
これはじっさいに送信した「いいわけ」。まだ、いまいち超越できていない。なんとなく理解できる。がんばれば。もっとわけのわからないほうへ飛んでもよかったのでは?と反省する。いや、遅刻の反省もしている。ちゃんと。いちおう。ごめん。






コメント

anna さんのコメント…
遅刻の言い訳に、「セクシービーム(^_-)-☆」とか私が言ったら、ぶち切れられそうです。
これ実際に言ったんですよね。大丈夫だったんですかね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
時間を押し付けることはしないんです、おたがい。いちおう会う日時は決めるけれど、そこまで決めていない。この日のこの時間、たまたま会えたら、うれしいね。くらいの感覚で待ち合わせます。偶然なんです。示し合わせても。わたしたちはべつべつの時間を生きているから。きちんと会えたらそれだけで奇跡。号泣です。ははは。というか、単に幅がないとしんどくて。あそびがほしい。そういう人間は一定数います。たぶん。大丈夫。