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日記710




「笑うこと」についてよく考える。

自分にとって笑顔はディフェンシヴなものであり、オフェンシヴなものでもある。受動であり能動。隠蔽と曝露が通じ合う結節点として浮かぶ顔。写真と似ている。関係すると同時に線を引く。彼岸と此岸を截然と分ける。かすかな暴力と親しみをもってシャッターを切る。ひらいて、とじて、ひらいて、とじて。ラジオ体操ではない。網膜のはたらき。感情のうごき。筋肉の収縮。つまり「見る」という営為。それはまず、矛盾からはじまる運動なのだと思う。あいだにたたずむこと。よく笑うひと。よく撮るひと。よく矛盾をするひと。

林家パー子とだいたい同じだ。テレビにうつるパー子はいつも頓狂な笑い声をあげ、写真を撮りまくっている。夫の林家ペーいわく、彼女の過剰な愛嬌は人見知りの反動なのだという。ふだんは異常に寡黙なのだとか。

内向と外向が「笑い」を通じて反転する。あの甲高い声は浮上の合図なのだ。クジラが潮を吹くみたいに。時間をかけて呼吸する生きもの。テレビカメラの前で、あるいはステージの上でだけ吹き散らかす。なにもなければ静かな水底にうち沈んでいる。人前で笑うだけ笑って、呼吸を確かめて、また沈む。その繰り返し。

「人見知りだけど、けっして人間嫌いではない」とパー子本人は語る。そしてむやみにキャーキャー笑い、なんの必然性もなくシャッターを切る。だいたい同じ種類の人間だと思う。わたしもそう。だいたい。あそこまで過剰ではないだけで。




退屈なエドナおばたん


「たん」とする文脈上の必然性がないため、おそらく誤植。それにしてもかわいい誤植。リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる  脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(高橋洋訳、紀伊國屋書店)p.468より。

借りた本。とてもおもしろい。買うなら初刷のうちがよい。そこそこ売れそうな予感がする。増刷ぶんは「退屈なエドナおばたん」が訂正されているかもしれない。ただの「おばさん」に。かわいさポイントが減る。むろん、本の主旨とはまるで関係がない。

しかし「退屈なエドナおばさん」なんて、ほんとうに退屈ではないか。「おばたん」が彼女の唯一の美点ではなかったのか。どうか、エドナから「たん付け」を奪わないでほしい。エドナは「おばたん」だからこそ退屈と謗られようがそれを拠り所に生きてこれたのだ。どんなに退屈でも、あたしは「おばたん」なんだからっ。そう、あなたは「おばたん」。かけがえのない、ただひとりの「おばたん」。エドナよ、「おばたん」をつらぬけ。立派な「おばたん」たれ。

いや、「おばたん」の訂正が「おばさん」ではなく「おばにゃん」とか「オバメヤン」とか「オバンドー」とかである可能性も否めない。原書を確認せねば。そもそも「おばたん」が正解である可能性も残っている。だとしたらなぜここだけかわいくなったのだ。他に語尾がかわいい部分は見当たらなかった。謎だ。なぜかわいい。

誤植(らしきもの)を見つけると、へんな気分になる。書きことばというものはエラーがすくない。純化された媒体で、たいていはあたまから終わりまでカッチリつくられる。そんな中にひょっこりあらわれる、つくられきれなかった残余に興奮してしまう。「エラーを愉しむ」。それはわたしがこの本を読みながら書いたメモのひとつだった。


予測と訂正を通じて、脳は継続的に世界の心的モデルを更新し生成する。p.111


 予測エラーは問題ではなく、脳が感覚入力を処理する際の正常な働きの一部である。予測エラーが生じなければ、人生はあくびが出るほど退屈なものになるだろう。意外なことや新奇なことはまったく起こらなくなり、脳は新たなものごとをいっさい学習しなくなる。ただし少なくとも成人では、予測はたいてい大きくははずれない。さもなければ、人生は驚きや不確実さ、あるいは幻覚の連続と化してしまうはずだ。p.113







いそいで読んだ感じ、この中島義道botから部分的に切り出した論調とちかいように思う。「この世界は確固としたものだ」という本質主義的なものの見方への批判がたびたび展開され、そうではない「つくられる」構成主義的な人間観が説かれる。


 情動は世界に対する反応ではなく、私たちが築いた、世界に関する構築物なのである。p.177

概念の学習を支援するはずのまさにその言葉が、カテゴリーが自然界の確固たる境界を反映すると、私たちに信じ込ませるのである。p.271

 私たちが「確実さ」として経験するもの、すなわち自分自身、他者、周囲の世界について何が正しいかを知っているという感覚は、日々を無事に生きていけるよう支援するために脳が作り出している幻想にすぎない。p.474


幾度か繰り返される「穴だらけだ」ということばが読後、とくに印象に残った。ありとあらゆる境界のあいまいさ。なんら画然と分かれてはいない。わたしたちは日々、一対一対応の論理ではとても記述できない複雑な感覚にまみれている。そこらじゅうに抜け穴がある。自分で思うよりずっと、あやふやで不安定な意識に乗ってぐんにゃり生きているらしい。構成主義的情動理論は、ぐんにゃりした世界像を提供してくれる。

ざっとページを繰った、感想にも満たないふまじめな雑文おわり。つぎは『エドナ・ウェブスターへの贈り物』(藤本和子訳、集英社)を読もう。「エドナおばたん」がじつはブローティガンの初恋相手の母親だったとしたら。そんな妄想を許せてしまえるくらいに、世界は穴だらけなんだと思う。ひとりの人間を介して、まったく関係ないかに思える本がただひとつの単語から密通し合える程度には。


コメント

anna さんのコメント…
林家パー子さんは、会ったことがあります。ちっちゃくて可愛いくて、肌がきれいな人だなあと思いました。
あと、文中の「おばたん」の連呼は、ぐさぐさ心に刺さりまくりました。
nagata_tetsurou さんの投稿…
パー子さんと会ったのなら、わたしと会ったも同然です。外見はちがっても、だいたい精神的に同じ人物ですから、そう思っていただいてかまいません。

「おばたん」が刺さるのもたぶん、つくられた感覚です。と書いてしまえるのはかんたんですが、ことばに生えたトゲを抜くことはかんたんではありませんね。ひとりでつくったものではないから。多くの人が、すこしずつ、べつの価値を付与してすべらかなかたちにできれば理想です。「おばたん」も「おばさん」も、わたしは親愛をこめて言いたいかな。