11月19日(火)
奥渋谷の本屋さんSPBSへ。中田考さんの『13歳からの世界征服』(百万年書房)と、やけのはらさんの『文化水流探訪記』(青土社)と、おまもりを買う。
立場は問わず、超然とした態度の人に惹かれる。悠遠たる眼光。信仰がそれを可能にするような。すべてに信の篤さをもって対応できる。そんな人のことばは、すなおに聞かざるを得ない。疑う余地のない威力が背後に垣間見える。人間が信を置く対象はさまざまある。なんでもいい。時空をこえて勁くしなる感受性に触れていたいと思う。できるだけ。
SPBSでは今月いっぱい(追記:12/8まで延長になったそう)、お坊さんの選書が並んでいる。そのなかの一冊が『文化水流探訪記』。ふっくらしたおまもりも売っている。筆書きのポップもたのしい。
おもしろヤング坊主(OYB)、藤井兄弟と選ぶ読書の秋フェア。
彼らのインスタがSPBSスタッフのあいだで話題となり、こんかいの企画が立ち上がったそう。わたしもかねてより藤井兄弟のインスタを眺めていた。きっかけはキャサリン・ダン著『異形の愛』(柳下毅一郎訳、河出書房新社)。
96年にペヨトル工房から出た小説が河出書房新社より再刊されたころ。自分があちらのインスタに残したコメントを読み直すと、テンション高めのへんな慇懃さが気持ち悪いと思う。それはたぶん、画面越しで見るだけの相手ではなくなったせいでもあろう(美坊主との関係を匂わす男)。
哀調を湛えた、なんとなくブルージーな選書だった。人柄がにじむ(気がする)ので本を選んでもらうとおもしろい。やれる範囲で可能なかぎり広く世界を描こうとする誠実さを感じた。こういうコーナーを見るとつねづね、わたしにもし「好きなの選んでよ」と依頼がきたらどうしようと妄想してしまう。
いろいろ適当な本は浮かぶ。でも結論はいつも同じ。ぜんぶ漫☆画太郎だ。なぜならば、漫☆画太郎が好きだから。結局は画太郎先生に帰る。心のホームポジション。忘れがたきふるさと。お菓子の家みたいに、画太郎先生の漫画でできた本屋があればいいと思う。わたしの見るかぎり、どう考えてもこの世に流通する本は2種類しかない。漫☆画太郎のやつと、漫☆画太郎じゃないやつだ。
ごく狭く、極私的な誠実さで選ぶとしたら、そうなる。「いろいろ」はバッサリあきらめ、いかんともしがたい狭隘さをもって届けたい。人生とは、自分をなくしていく過程なのだ。ではさいごに残るものはなにか?となれば、いまのところ、わたしには画太郎しかない。ミスターSASUKE、山田勝己が「俺にはSASUKEしかないんです」と涙を流したように。画太郎しかないんです。わたしには、画太郎しか……。
漫☆画太郎から外の世界は「よそ行き」になる。それも悪くない。旅はたのしい。疲れたら、ふるさとに帰る。くそしてねる。
夜、渋谷SANKAKUへ。
お誘いを受け「行きます」と即答したけれど、ぼーっとしていて当日までなにをやるのかわかっていなかった。事前の説明はきちんとあった。わたしがぼんやりしていただけ。手帳に「なんらかの会」と書いていた。それで十分、納得していた。
お昼ごろtwitterのDMが届く。ゆで卵を頬張りながら「そういう会だったのか!」と悟る。音楽とことばの関係性について話し合う、哲学カフェちっくな会。関係ないが、さいきん日に2,3個は卵を食べる。めかぶ、納豆、ぬか漬け、バナナも欠かさない。やさしい人でありたい。主におなかに。
誘ってくださった主催側の田畑“10”猛さんを除いて、知り合いは誰もいない中でテーブルを囲む。緊張した。自分がどんな発言をしたかあまりおぼえていない。いただいたメモ紙に「ブヌン族」とだけ書いていた。そのブヌン族の音楽をSpotifyで聴きながら帰る。漢字で「布農族」と書く。心地よすぎて電車で立ったまま寝てしまった。ブヌン族はいい。
いちばん前のテーブルに座る。わたしの着いた席は音楽をやる人が多かった。そのことについて全員の前でわーっと話す。ようわからんこと言ったかなと思う。あの場で言いたかったことを補足しておこう。虚空にむかって。
内と外の見立てを思いついた。音楽家はいわば音の内側にいる。音のない書きことばはその外側に位置する。鳴るか鳴らないかの隔たりがある。文章は音楽の残骸かもしれない。あるいは残響。いずれにしろ残ったもの。音の中心からは遅れをとる。ひとり、はぐれてしまった時間。
テーマの大枠は「音楽とことばの関係性」。ここでの「ことば」は文章と捉えていた。つまり音の内側と外側の関係性。言いたかったのは、内に食い込んでいる方が多かったため外から眺める発想にあまり行きつかなかった、という点。
奏でる人は、奏でる人だ。もちろん内外を往還できる音楽家もいる。しかし批評的な視座を得るには自分のやっていることをいったん止めないといけない。説明には一時的でも疎外を要する。なかなかできることではない。
ふと「ブログを書くのはなぜ?」と問われたとき、「見失って久しいな……」と遠い目で思った。すっかり身体化されている。「右手があるのはなぜ?」のような問いに等しい。 おそらく音楽をやる人もそう。説明できない。長くやればやるほど。「身体化」をすこし展開していえば、「自己拡張のため」だろうか。
言語化には離脱がいる。幽体離脱。流れを止める。ひとりになる。音楽は流れる。ひとつになる。会話もフロウに寄り添う傾向があったと思う。定着を目指すより流れに身を寄せる。とくに原田卓馬さんのノリはいい感じのグルーヴを生み出していた。おもしろいおじさんだった。
見るからにおもしろい……。「ドロドロの絵」って。
ほかにAnoiceの木戸崇博さんと村田有希さん。
木戸さんからブヌン族を教わった。
と、こがらしのギターボーカル、田中健太さん。
リスナーTさんとわたし。6名のテーブル。それぞれの活動をあとからネットで見ると、えらい人に囲まれていたような気になる。だれも事前に知らなくて申し訳なく思う。まっさきにブヌン族をチェックしてすみませんと思う。
ほかのテーブルにも濃い人ばかりいた感じ。どさくさに自分の素人くさい意味不明ラップも載せておこう。これらの動画の面々が一堂に会していたと思うとおかしみがわくから。もはやフェスだ。なんらかのフェス。音楽しないフェス。亜空間だった。
これだけべつべつの表現を放つ人々が集まっていても、なんとなく話ができちゃう日常言語はとてつもなく画期的だ。そのぶん勝手はゆるされない。歌や演奏は勝手なもの。話なんか通じなくていい。だからたのしい。音の内側は勝手がゆるされる空間だった。
「なぜブログを?」の問いには、「祈りのようなもの」とこたえた。問に対応していないけれど。適度にいじられてありがたかった。ついでにいうなら音楽も祈りではないか。文章と音楽はさほどわかれていない。ブログだって勝手なもの。しかしあんまりことばの定義を混ぜっ返しても話がぐちゃぐちゃになる。
直感的に「ひとりになる」と「ひとつになる」はとてもちかいと思う。うまくいえないけれど、時を刻むしぐさとして。ことばのしぐさと、音のしぐさ。どちらも時を束ねる手つき。ちがいはたぶん速度にある。あくまで私的な直感でしかないが。それ以外になにがあるのか……。
広い意味での「布教」が裏テーマだったのかなと私的なふりかえりとして思う。論点はほかにも多岐にわたった。おもしろい会でした。「Cafe Trialogue」という企画、渋谷SANKAKUで月にいちど開催中だそうです。来月も時間が合えばいくかもしれない。話のタネが育つ。
コメント
それとAnoiceのtimeって曲、すごくいいですね。最後まで聞きこんでしまいました。