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日記713




送信したメールの文章を読みなおす。ささいな誤字脱字が見つかる。すぐに訂正したくなる。忘れものを取りに戻るように。なくした平仮名のひと文字。漢字のひと文字。意味は汲めると思う。見つけてくれる。あわてない。画面を眺める。ほんの数秒。

スマホを置く。指から文字がこぼれていくみたいだ。忘れものより、染みにちかいかも。数滴こぼれた。ある程度はコントロールしているつもりでも、ぜんぜんできていない。あるいは書き出しから、すでにこぼれているのかもしれない。必然性は何もない。偶然の所産をめぐらせている。

誤字脱字には、しぐさの情報が宿る。文字を打つそのしぐさ。システマチックな文字列の中に、エラーを起こす身体がふと垣間見える。文字の背景から身体がせり出す。送るはずではなかった指の運動が送られる。だから、すこし恥ずかしい。

隠すべきものが顕在化する。作為のほつれ。パンツの穴みたいな。しかし、ことばにはもともと動作がつきまとう。どんなものであれすべてそう。整然と並べられた文字の裏で、生身の人間たちが身を隠すようにカリカリとやっている。字をまとうしぐさ。読むべくは、そんな一連の動作かもしれない。そこが色気の在処。

忘れもの、染み、パンツの穴。
でもじつはただの打ち間違いの話。
これは秘密。




 喋る、朝から晩まで人間は喋る、なかには夜中に寝言を言うものまであろう。とにかく喋る。その大半が無意味な言葉の浪費であろうと、ぼくはとがめない。ぼくらは言葉の中で生まれたのだ。言葉に溺れないためには、模倣するのだ、美しい笑顔を、力強いリズムを、正確な発音を、ユーモアのセンスを、ぼくらの生まれた土地を忘れないために、土地の言葉、その習慣を、そのゆかしい挨拶を、ぼくらのあとからやってくる人間が模倣しやすいように、しっかりと模倣するのだ、画家が大芸術家の線と色彩を模倣するように、職人が親方のくせを真似るように、芸人が先代の師匠の噺を復元するように……人間が、真の意味の人間になるためには、喋って、喋って、喋りまくるのだ。もし戦争中のように、もし独裁国家のように、ぼくらのお喋りが盗聴されたり、統制されたりしたら、ぼくらは画一的なロボットになるだけだ、微笑みをうかべながら怒声がはりあげられるようなお化けになるだけだ、ぼくらは社会そのものを失うのだ。そして、ゆたかな、言葉の母体としての沈黙を味わうために、親しいものたちと、その沈黙を共有するために、できるだけ言葉をかわそう、時代を、空間を、人種を超えて、活力のある人間のリズムで、いきいきとした動作をともなって……。p.136


図書館で借りた『現代詩読本 特装版 田村隆一』(思潮社)より。
田村隆一のエッセイ。題はメモし忘れた。




家では裸足でいる。祖母から「アンタ、よく寒くないね」と言われる。朝食をとらないと「アンタ、よくお腹すかないね」と言われる。両方とも、まいにちのこと。うん。寒いし、お腹もすく。そのうえで裸足を選んでいる。朝食抜きも承知のうえだ。でも指摘されると、返答に窮してしまう。かんたんには説明できない。

苦しまぎれに「趣味で」と答える。まいにち。言外に「わからなくていい」と。それがわかりやすい。煩雑な説明は押し殺している。代わりにここでする。まず自分は「寒い」や「空腹」をすぐにネガティブな価値観へと結びつけない。かならずしも悪くはない。時と場合により、それぞれの程度を見積もりたい。

「寒い」については、冷え性のため靴下をはいてもどうせ寒い。一年中。それに「寒い」といっても指が壊死するほどではない。室内ならなおのこと、むしろ比較的あたたかい。加えて裸足のほうが快適に歩ける。足の裏が接地する感覚に価値を置いている。冷たくともあえてする。寒いプレイ。冷感の獲得。季節をつかまえる。そのような意識でいる。

「空腹」は「胃腸を休める時間」と読み替える。とくに空腹を不快と思わない。空腹時が標準だとさえ思う。感情的な不安がない。食欲がうすいのかもしれない。食べなければ餓死するが、日に一回はかならず食事にありつける。と、信じられる生活水準をいまのところは保っている。最低限が確保できているため、安心して朝は緑茶とコーヒーで済ます。調子もよい。なにより身体の反応に忠実でいたい。

などと書いてみてなんだが、わりとどうでもいい。こんなうるさいお気持ちをまいにち押し殺していたらノイローゼになる。思うだけで溝が深まる。価値観の相違が際立ってしまう。バンドなら解散、恋愛なら破局、夫婦なら離婚、一家なら離散だろう。離散は避けたい。書いてみると「しちめんどくさい人間だ」と自分でも思う。「うるせえ」と思う。

世は並べて事もなし、かのようにふるまって日々を過ごすけれども溝はある。そこらじゅう、ありふれている。並べても同じではない。そんなありふれた溝の深さについ目を凝らしてしまう。ほんとうの趣味は、そっちだろう。落ちぬよう、注意深く。 

明日はどう答えよう。「アンタ、よく寒くないね」。歌でごまかそうか。「いいの、この風に吹かれていたいの」。日々にゆられて。ことしの夏、ラジオで聴いた。泉まくらの。それか笑ってごまかす。わたしのごまかし方は歌と笑いの2パターンしかない。のんきなふり。寒いけどね、ふふふ。お腹すくけどね、ははは。「ふり」ではないのかも。わかんない。







12月1日(日)


多摩映画祭へ。『団地 七つの大罪』を観て、団地団のトークを聞く。1964年のコメディ映画。竹中労の同名本が原作らしい。上映とトーク、合わせて6時間以上。ほとんど丸一日、団地漬けになった。まさかこんなに長丁場だとは思いもよらない。うれしい誤算というべきか……。

映画につづくトークは二部制。第一部は肩慣らしで40分くらい。ランチタイム後の第二部は4時間半ほど喋り倒してくれた。終盤に映画祭スタッフから紙で言付けされるまで、団地団メンバーのだれひとりとして「そろそろ……」みたいな終わりを匂わせる発言はしなかった。4時間を超えたあたりから「いつ終わるんだろう」としょうじき不安だった。

おそらく喋る側にもそれはあったのだろう。差し紙の流れで小説家の山内マリコさんが「さすがに限界」と漏らす。それを聞いてわたしはほっとした。底知れぬお喋りに恐怖さえ感じていたのだと思う。漫画家の妹尾朝子さんも「疲れた」と。しかし脚本家の佐藤大さんと団地研究家の大山顕さんは「まだいける」といった雰囲気をかもす。むしろ「これから」ぐらいの構え。ライターの速水健朗さん、稲田豊史さんは中立的な感じだったかな。そんなバランスの6人で団地団は構成されている。

始まる前に速水さんがドーナツを配ってくださる。わざわざ客席をまわって、おひとりおひとりに。わたしはいただかなかったけれど、思わぬやさしさに包まれてしまった。速水健朗マジイケる。そんなことされたら、好きになってしまうじゃないですか。と、となりの席の女子に消しゴムを拾ってもらっただけで勘違いするバカ男子の気分でトークを見始める。

窪地を埋めちゃう都市開発のやり方から大山さんが見出した、文明と平ら性の話がとても興味深かった。地面を平らに均すところから文明が始まる、という。めちゃざっくりした話だけれど、めちゃ本質的だとも思う。そういえば建築家の平田晃久さんは積層建築のフラットな構造を『建築とは〈からまりしろ〉をつくることである』(LIXIL出版)で批判していた。それは外部の環境に無関心な様態である、と。なんとなく思い出す。大山さんは批判的な物腰ではなく、ひとつの発見として語っておられた。

たしかに、平らだ。あたりまえ過ぎて意識できなかった。平らでないと生活できない。いまわたしが立っている床も平らである。PCを置く机も平ら。人類は「平ら」を欲している。なにより平らは快適だ。歩いてよし、走ってよし、座ってよし、立ってよし、置いてよし、登ってよし、降りてよし、寝てよし……。すこしでも凹凸があったり、斜めだったりするとそれだけでストレスになる。人類は「環境を平らにしたい」という欲望に突き動かされて文明をここまで発展させてきたのかもしれぬ。

平安な暮らしには文字通りの「平ら」が欠かせない。起伏や傾斜に満ちた荒川修作とマドリン・ギンズによる養老天命反転地は、文明社会の「平ら性」を逆照射するアート作品として生み出されたとも解釈できそう。「平ら性」は人間の基本的な欲望なんだと思う。フロイトが「無意識」を発見したように、大山さんは「平ら性」を発見した。平らにしたい欲。それが「理性」なるものの基底に存在するのかもしれない。この概念を聞いてわたしの直感は瞬時にそこまで飛んだ。大袈裟にも。大袈裟かも。

ほかにもおもしろいトピックはたくさんあった。『団地 七つの大罪』の内幕から、ジェンダーの話、時代の批評装置としての団地の話、団地と災害ユートピアの話、デス・ストランディングの話、マンションの理事会がしんどい話、ドラマ『チェルノブイリ』の話などなど挙げていたらきりがないほど多岐にわたる思考の触媒をいただけたと思う。これで1,200円は激安。

終了後に山内マリコさんが持参したフェミニズムに関するマガジン『エトセトラ Vol.2』を買う。山内マリコ・柚木麻子の責任編集。トークの中で「対面は大事」という話が出たとおり、ご本人から直々におすすめの声を聞いたため購入した。「おすすめ」だけでなく大山さんの「モヤる」というコメントの効果もあった。一方向的な話に引いてしまう質なので。なんたって「特集・We love 田嶋陽子!」。ガツンと野心的な感じ。ゆっくり読もうと思う。




コメント

anna さんのコメント…
目からうろこです。ほんとそーだ。確かに文明は平らなところに起こってますね。
文明は農耕ができる川のほとりにできるって教わりましたけど、なるほど、平らなことの方が必要不可欠だなあ。
アイデンティティもいい曲です。それから、穴の開いたパンツはさすがに捨てましょう。
nagata_tetsurou さんの投稿…
驚くのもおかしいくらいあたりまえなのですが、ことばにならないほどの「あたりまえ」がじつは意外でいちばんおもしろいのだと思います。理性は平らが好き。曲の名前は「日々にゆられて」で『アイデンティティ』はアルバム名でした。じつは。ははは。いい曲だし、いいアルバムです。

『パンツの穴』という映画がありましたね、鈴木則文監督の。関係ないけれど「ほつれ」で連想してそのまま書きました。自由連想法です。パンツの捨てどきってわからなくて、ボロボロでもけっこうはいちゃいます。「見えないから」と油断して。