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日記714



12月15日(日)


夜に渋谷の書店、BOOK LAB TOKYOへ。トークイベント。登壇者は臨床心理士の東畑開人さんと、人類学者の磯野真穂さん。「〈病むとは何か〉を考える」という表題。twitterで告知に触れて、立ち見席のチケットを買った。売り切れる前のすべりこみ。

立ち見は望むところだった。なんせ家でも多くの時間を立って過ごす。日頃から無駄なストイシズムを発揮している。おかげでいくらでも立ちつづけられる自信があった。何時間でも立つ気でいた。しかし椅子に空きが出たようで、うながされるまま途中から座らせていただくことに。「立つ気」は鞘に収め、おとなしく座る。




お話を拝聴しながら、山田風太郎のことばを思い出していた。「最愛の人が死んだ日にも、人間は晩飯を食う」。警句めいた一文。ここには異なるふたつの時間感覚が凝縮されている。二度と戻らない一回的な人生の時間と、繰り返す円環的な生活の時間。死は一回。晩飯は毎晩。一回性と円環性の鋭い対比に唸ってしまう。

東畑さんの著書『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)の文脈につなげると、傷と向かい合う「セラピー」は一回性の時間にもとづく概念であり、傷を覆う「ケア」は円環性の時間にもとづく概念だと思う。生の時間には、この両者がつねに絡む。もうない時間と、まだある時間。

磯野さんは、がんを患う哲学者の宮野真生子さんとの往復書簡を通じて一回的な出来事に直面している。ことしの七月に宮野さんは亡くなった。その約二ヶ月後、死の直前まで交わされた書簡は『急に具合が悪くなる』(晶文社)という一冊の本となる。

この本は読みすすめるに従って「覆い」が剥がれていく。もう時間がない。切迫した剥き身のことばがあらわになる。そのさまを対談の中で東畑さんは「実存主義的」と指摘していた。そしてその「実存」がわからない、とも。「実存」はここでの自分の解釈に当てはめると一回性の時間に根ざすものだろう。




東畑さんはつねに多元的な考え方を志向しているようだった。ひとつではなく。「臨床家はケースバイケースの思想をもつ」と。関係あるかわからないが、一人称も「僕」を中心として「私」「俺」と話しながらズレる瞬間があった。おそらく無意識に。ゆれる。一貫しない一人称は「ケースバイケース」の感覚とも通底していそう。

『居るのはつらいよ』の文章は、つい読んでしまう。つい探してしまう、ともいえる。東畑さんご自身も手探りだから、読みながらいっしょになって探る。うまく覆われている。中心にある「わからない」をともに周回するような読み味。「実存がわからない」ということばを聞いて、本の語り口そのものだと感じた。なんとなく。そのまんまな印象を持ち帰る。

臨床家としてのケースバイケースな態度と対比して、「哲学や宗教は一元的」とおっしゃっていた。これはわたしなりの整理だと、「対社会」と「対世界」のちがいだと思う。社会を考える態度は時々の状況によって変わる。時代、国、言語、関係する相手、置かれた境遇、所属先などによっていくらでも変化する。逐一の流動性に合わせ、なるべく多様な視点を確保できたほうがよい。つまりケースバイケース。

いっぽうで「対世界」の思考は、哲学者の永井均さんのことばを借りれば「独自抽象」。根源的で極私的な問いを探求する。世界の独在論的存在構造とか、世界はなぜ「ある」のか?とか、足の裏に影はあるか?ないか?とか、なぜ私たちは過去へ行けないのか?とか、なんかもうそんなやつ。お行儀のよい社会性の範疇を悠々と超える。世界へ飛ぶ。あるいは世界を飛ばす。どこか圧倒される。宗教もそう。




多元性と一元性は小説と詩のちがいみたいだ、とも思う。大雑把にざっくり二分するなら。小説の語りは多元的に展開する。かたや詩は一元的な声の強度をもつ。もちろん、はみ出し合う部分もたくさんあるだろう。とりあえずの思いつき。

ここまで考えて、対談の終着点が「物語」に関する議論へ行き着いたことにうなずけた。おふたりとも「対社会」の枠組みで話していたのだと思う。小説的な多元性を前提とする会話。三人称性を保ちながら思考していた。「我々は脆弱ですよ」と東畑さんはおっしゃる。とても誠実だと思った。そんな誠実さのゆえに、強いことばを打たない。




「わからないようにする」が重要?と、帰りの電車内でEvernoteにメモをした。むやみにわかろうとしない。それが心理的な安定性に寄与する。いわば、覆いをかける。最愛の人が死んだ日にも、人間は晩飯を食う。晩飯は覆いだ。そうやってすこしずつケアが始まる。

東畑さんのお考えは「ケースバイケース」ながらも、どちらかといえば「覆い」を重視している。そんな印象を受けた。覆いがないと、わかってしまう。わからないから平静でいられる。覆いをかけて、人は疑いをとりもどす。きっとまだ、あの人はどこかにいる。「死」を疑いでそっと覆う。ほんとうはどこにもいない。でも疑いようのない出来事は、あまりにつらいから。

何度か繰り返していた「実存がわからない」というお話は、東畑さんの職業病みたいな部分もありそう。と、身勝手な憶測を立ててみたい。わからない、ようにしている。この態度は「ケースバイケースの思想」ともつながる。答えを固定しない知性のあり方。むやみにわかってしまわないこと。

死は誰にもわからない。生もなんだかわからない。でもなぜか生きてしまう。磯野さんは、闘病中の宮野さんへ「死ぬんじゃねーぞ!」と書き送っていた。疑念を振り切って確固たる地平へ飛び出すように。たぶん、さんざん疑い尽くした結果。一人称の署名を刻む。あなたが生きているいま。それだけは疑えない。わたしもまた。だから。




石垣りんの詩、「挨拶」を思い出した。
ここにも一回性と円環性の対比がみられる。


一九四五年八月六日の朝
一瞬にして死んだ二五万人の人すべて
いま在る
あなたの如く 私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。


居場所とは「油断できる場所」だという、東畑さんのインタビュー記事が頭の片隅にあったせいだろう。油断は繰り返す円環的な時間の中で生じるのだと思う。生きることに不可欠なもの。





あの「一瞬」が「いま在る」へと接続する。

詩で表現されているように、一回性と円環性は地続きに絡み合う。疑いようのない生の孤独がわたしの深層にはつねにある。それは死の孤独ともいえる。一回。その土台のうえに油断の時間が構築される。油断できる、いま在る日常がいかに貴重かと思う。ときおり。我に返るみたいに。ほんとうはわかってる。二度と戻らない美しい日にいると。

さいごのさいご、質問コーナーで手をあげた。でも、ほかの質問者さんにお譲りした。「死」に関する質問が多かった。わたしは「恋愛」についてお聞きしたかった。恋は、わかってしまうことだと思う。この人が好きだと、わかってしまう。どうにも疑えなくなってしまう。覆うことができなくなる。

別れもおなじく、わかってしまう。もうわかった。わかったから、お別れしよう。わかって始まり、わかって終わる。つまり「わかる」が時間的な区切りとなる。

わたしは人を強く好きになることがない。わからず屋なのだ。強いことばが苦手。日常のどうでもよさを愛している。「実存がわからない」という東畑さんも似ていそう、と勝手な親近感を抱いていた。むろん、これも憶測に過ぎない。パーソナルな部分に踏み込むかもしれないから、ためらいがあって質問はお譲りした次第。

しかし話題にのぼった「実存」を考えるうえでは、いい補助線になると思った。恋愛については宮野真生子さんも著書で論じている。『なぜ、私たちは恋をして生きるのか― 「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版)。検索したら、Amazonのレビューで小谷野敦さんと遭遇した。ことし何回目だろう……。




考えたくなることが多くて、おもしろい対談だった。
行ってよかったと思う。座れたし。



コメント

anna さんのコメント…
一回性と円環性、対社会と対世界、多元性と一元性っていくつか対になる考え方がでてきてますが、その繋がりはどういう風に考えたらいいんでしょうか。共通する要素は、現実に対してそれから抽出された原理ということかなあと私の幼稚な頭では想像しましたが、あってる?
それとメモしたっていう「わからないようにする」のところは、ずいぶん前に書いてあったような気もしますが、「誰もいない森で倒れる木は音をたてるのか?」ってバークリーの認識論?の話に繋がる考えなんかなあとふと思いました(単なる気がするだけレベルですが)。確か認識についての話がここで書いてあった時に、大学の量子力学の講義でこんな話があったーって書いた覚えがあるんですが。
nagata_tetsurou さんの投稿…
そうですね、二元論を遷移させています。思いつきの材料を図式的に対置させた感じ。感覚です。わたしの文章は一見ロジカルなようでまったくロジカルではありません。すこしずつ飛んでいます。ぴょんぴょんしながら書きます。語の連関がゆるい。随想ですね。

「なんかこっち行けそうかなー、じゃあ行ってみるか」と、そんな筆致。知らない路地に入るのが好きです。たまに迷子になります。お散歩気分で読んでください。気のむくまま。そう「単なる気がするだけレベル」で角を曲がります。頭はいっしょです。バークリにもつづく道が見つかるかもしれない。抜け道はどこだろう。目的地はとくにありません。おもしろそうなほうへ行けたら、うれしくなるだけです。