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日記717



卵のパックに、花びら。ひとひら。いかにしてこうなったのか。わからない。ただ「見つけた」と思う。こんな瞬間によろこびがある。あまりに些末で、自分でも笑ってしまうけれど、わけもなくうれしい。

ゴミといえばゴミだ。というか、見るからにゴミでしかない。でも洒落ている。ちょっとだけ。ゴミだって洒落込むのだ。それも、おそらくは、偶然に。いたずらっぽく。なかなかこんなことはない。ありふれているようで、滅多にない。見たことがない。

だいたい卵のパックがぽつんとポイ捨てされている状態からわからない。一気に使い切ったのだろうか。ロッキーが数人いればそれも可能か。しかもそこへ花びらがひとひらだけ落ちて、なんだかお洒落になっているではないか。世にも奇妙だ。しかしかわいい。写真にしなければ。


生は、人間の理性を超えた存在への、賢明なる降伏の過程にほかならない。


グリゴーリィ・チハルチシヴィリ著『自殺の文学史』(作品社)のなかで引かれていたことば。大袈裟にも、わたしは花びらを乗せた卵のパックに「人間の理性を超えた存在」を幻視してしまう。圧倒される。

なんら通用しない。思いもよらない。及びもつかない。神通力がここにある。大自然の脅威である。グランドキャニオンを見なくても、屋久島に滞在せずとも、身近な時の狭間からひれ伏すほかない自然の威力があらわれる。自然とは、素知らぬ顔でこんなことをしてくるやつなのだ。

卵のパックに花びらを乗せて、知らん顔する。なんだそれ。おい。てめえ。こんなことしていいと思ってんのか。お前これどうすんだおい。この想い。好きになっちゃうでしょうが!わかってんのか自然。いい加減にしろ自然。振り向いてよ自然。ねえ、ねえってば!

しかしどんなに語気を荒げても振り向いてはくれない。それもまた自然なことだった。なんたって自然だ。すべてを自然に帰してしまう。ごく自然に。自然なんだからしょうがない。やるせない。ひとたまりもない。もう知らない。メイのバカ。ちぇっちぇっ、気取ってやーんの。




たとえば、卵のパックに花びらが落ちるようにわたしたちは生まれるのかもしれない。あるいは、助手席のドアから半分はみ出してしまうように。深沢七郎によると「生まれることは屁と同じ」らしい。言わんとするところは似ている。屁だって、ケツからついはみ出しちゃうものだ。

「卵のパックに花びらが落ちるように」という比喩は、屁よりもいくらか詩的に思う。詩は路上に落ちている。そう言いたい誘惑に駆られる。詩は個々のリアリティから立ち上がるものだとつねづね思っている。そして路上は読むものだ。歩行は読解の一形態である。

よく誤植が気になる。花びらを乗せた卵のパックも、はみ出した座布団も、言うなれば路上の誤植だ。そして自分自身もまた誤植のようにして生まれた。文意からはみ出した変なものが偶然、刻印されてしまうように。意味がわからない。でも植わっている。生きている。ちゃっかり。収まりのつけようもなく。まちがっている。けど居てしまう。

そのせいか多くのことを「まあいいや」と思ってやり過ごす。おならしちゃったけど、まあいいや。なんかはみ出ているけど、まあいいや。次いこう。そのままにして時計の針が進む。とりあえず。「まあいいや」は重要だ。これがないと時が進まない。この世界は「まあいいや」の産物だと思う。




1月9日(木)


障碍者施設で起こった連続殺傷事件の裁判が始まり、昨年の7月24日に放送された荻上チキさんのラジオを聞き直していた。植松聖被告と面会をつづけた記者による報告。誰もが抱きがちな「内なる優生思想」の話が序盤に出る。

記者が植松被告の優生的な「言っていること」を部分的に肯定すると、彼はすごくうれしそうにしていたという。しかしつづけて「やったこと」を強く否定すると、肩を落としていたと。この話が深く印象に残る。

自分が良きものであると、誰かに認めてほしい。どんな罪を犯そうとも、いかなる状態に追い込まれようとも。正しくありたい。リアルタイムで聞いたとき、ここにかなしみの居所があると思った。ことばを選ばずに書けば、偽りのない人生の姿があるとも思った。そしてその偽りのなさゆえに、とてもかなしいと。同情では決してない。ただかなしい、抽象的な人間の姿がわたしの脳裏に浮かんで、動けなくなった。

「偽りのない」と書くと、どこかに真理があるみたいだけれど、そんなもんはない。ないのに、わたしもたびたび「正しさ」を志向してしまう。ダメだ。みんなちがって、みんなダメだ。どうしようもない。たとえ人間には偽りしかないのだとしても、せめてダメなりの正直さをもって偽りたい。人は通じなくても希望を抱いてしまうダメな生き物だ。永遠の嘘をつくように。きっとそれが祈りと呼ばれる。祈りとは永遠の嘘だ。そうにちがいない。なに言ってんのかわかんないけれど。嘘をつけ、永遠のさよならの代わりに。やりきれない事実の代わりに。

植松被告は事件によって嘘偽りのない答えを出した。暴力はしばしば「答え」としてあらわになる。彼にとって世界はそうでしかなかった。だから、そうした。しかし、「世界がそのようにしか見えないからといって、世界がそのようであるとは限らない」のだ。小説家の長嶋有さんが『問いのない答え』で書いていたように。この世界はもっとずっと茫洋として、果てしがない。

徹頭徹尾、問いにこだわることが倫理につながる。ごく単純に、そう思う。生きることに対して、問うということ。そうやって、かくされた悪を注意深く見ること。もし真理を発見したとしても、それは自分だけのたいせつなものだ。ひとりぼっちである時間の、ひそやかなはなやぎにもなる。外へ出してはいけない。自分がなくなる。真理とはそのような性質をもつ。それにだいいち、日本人なら多くの人が幼い頃に崩壊の呪文を教わるんだ。たいてい知っているはず。こいつでお城を景気よく沈めることができる。せーの、「バルス」。

あまりニュースに言及しないけれど、まじめに考えることは多い。いちいち頭を抱えてしまうため、ニュース自体を積極的にチェックしていない。障碍者施設の事件については昨年、書きかけた。しばらく下書きに置いて、削除した。まじめ過ぎてつらかったから。これはテイク2。













コメント

anna さんのコメント…
そりゃ、ゴミだって洒落込みます。私だって、おしゃれするときもありますしね。
風邪治ったみたいですね。よかったです。
nagata_tetsurou さんの投稿…
なんとか治りました。ありがとうございます。
annaさんのお具合はいかがでしょう。

ああ、そうですね、この世ではゴミもとうぜんのごとく洒落ています。わたしだって、深海魚に近い生き物だけどおしゃれしますもん。というかまず、服を着ないと捕まりますから。深海ではみんな全裸なのに。でもせっかく着るなら自分の気に入るやつがいい。貧乏性です。