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日記719



 『マインドインタラクション AI学者が考える《ココロ》のエージェント』(近代科学社)という本を読んでいた。国立情報学研究所教授の山田誠二さんと、北海道大学教授の小野哲雄さんによる共著。

 馴染みのうすい用語が頻出するにもかかわらず、サクッと読める軽い本。Amazonのレビューに「寝っ転がって読める」といったようなことが書かれていて、思わず「そうだね」と相づちを打ったほど。むしろ積極的に寝っ転がりたくなる。気さくな筆致。さいごにおすすめの居酒屋まで教えてくれる。

 中身の詳細はとくに書かない。この本にある「エージェントを介したコミュニケーション」のお話を読んで波及的に思ったことをメモしておきたい。略称は、AMC(agent-mediated communication)。かんたんに説明すると、第三者を介したコミュニケーションのこと。そのまんまやんけ。


 AMCによって考えられるエージェント利用の面白い例として、ペットを通じた人同士の出会いをAMCでやってみるということがあります。みなさんも、このような話を聞いたことはないでしょうか。「同じ公園で犬を散歩させている二人の飼い主がいます。まず、犬同士が仲良くなって、それに釣られて飼い主同士が話をするようになり、お友達になった」というお話しです。(pp.189-190)


 「エージェント」とは、ここでいう犬。その名の通り仲介者。この本の文脈だとAIになる。人でも動物でも機械でもモノでも、なんでもいいけれど二者間に共通の第三者を要所要所で介すとコミュニケーションはぐっと円滑化する。ここだけ押さえて以下、「この本の文脈」からは思いっきり逸れる。それはもう思いっきり。




 ひまでひまでどうしようもなかったいっとき、知らない人とランダムでつながる通話アプリをひんぱんに使っていた。自称中学生から自称50代のおじさんまで、隔てなく誰とでも話をした。来る日も来る日も。そこで気づいたことがひとつある。自分は、互いに接点のない者同士であるほうがことばを動かしやすいタイプの人間らしい。

 もしかしたら、誰にでもそうした側面はあるのかもしれない。話題にもよるだろう。知り合いだから話しやすいテーマと、知らない者同士だから話しやすいテーマがある。わたしは後者のテーマを好むみたいだ。

 では「知らない者同士だから話しやすいテーマ」とは何か。それは具体的なものではない。抽象的な問題系に連なるふわっとしたお話。「将来の夢は?」みたいな漠たる問い。いや、もっと飛ばして「エイリアンって何色だと思う?」ぐらいが最適。応答は嘘でも適当でもいい。そこでは、ことばがひとり歩きできる。純粋にことばだけで描きうるもの。なにせ仲介役を果たす道具がことばしかない。通話なんて特に。

 つまり知らない者同士のあいだで会話を円滑化するには、ことばそのものを他者として、第三者的に操作する必要があるのだと思う。それには抽象化が役に立つ。名前と肩書きを前提とした具体物としての「自分のことば」は無効となる。

 お互いがお互いを何者にもしていない、する必要もない。ことばを遠くへ跳ね飛ばし、まっさらな状態から好奇心だけで無邪気に関係を始められる。ちょっとワクワクする。




 まるでべつの生き物のようにことばを運動させること。その都度その都度、立ちのぼる思考へ場当たり的にアイデンティファイしていく。もちろん相手のようすもうかがいつつ。うまく話題が転がれば、たのしいことこの上ない時間となる。生まれたばかりの関係のうえに、新鮮なことばを乗せつづけることができるのだから。

 生まれたての関係性。それは生まれたての自分を照射する。おそらくそこで可能になるのは固定化された静的な自己をなげうつ、動的でダイナミックな自己のふるまい方。逆にいえば、ふだんは自己同一性に縛られてしんどいのだと思う。

 しかし「自分」なるものは自分が思うよりずっと一貫している。わざわざ縛らなくとも、つくらなくとも勝手に一貫しているから、心配ないのではないか。いくらでもなげうって。日々の写真を羅列すれば一目瞭然じゃないか。てめえのinstagramを見ろ。ああ、どこにでも自分がいる。どれだけ振り回しても振り回されても、いる。絶望的なまでに。だけどそこにふしぎな安心感もある。ほっと息をつける唯一の世界が自分の写真のなかには存在しているのだ。




 非常に感覚的なもの言いになるけれど、どうも「わたしさえいなければ」と「わたしがいてくれる」のあいだを行ったり来たりしているみたいだ。他へ向かう欲求と、自己の確認。死へ向かう欲求と、生の確認でもいい。

 このあいだにおけるバランス感覚が精神的な安定性に寄与するのだろう。知らない者同士での接触を好む点は、「わたしさえいなければ」の力動によるものだ。ことばを自分から遊離させていたい。身体から名前を引き剥がしたい。

 写真は自分にとって、ふたつのバランスがぴったりとれている。死へ向かう欲求を、生の時間へ閉じる活動だと思う。得手不得手はべつにして、つづけていくべきだとさいきんよく思う。自他の距離を見積もる。生活に四角い均整をつける。わたしをここへあらしめてくれた、日々のために。

  ブログは「わたしがいてくれる」ほうへ向かう。名を刻む行為。いてほしい。こんな人。ほんとうにいるのか定かではない。〈わたし〉という、知らない人に名前をつける。「書く」とはそのような営みだろう。ひとりの人間を描く。もういない人かもしれない。書いたそばから忘れてしまう。いてくれるとうれしい。呼び止める。消え去る前に。どうか、わたしがここにいてくれますように。


 

コメント

anna さんのコメント…
あ。更新されてる。
そういえば、ここのブログを読むようになったのは、最初にチャットで教えて貰ったのがきっかけでした。
私がチャットしたのは何年か前のあの日だけだったんで、すごい偶然です。
nagata_tetsurou さんの投稿…
あ。コメントついてる。
そうですね、すごい。すごいです。こんな場末の謎ブログに何年もお付き合いくださるなんて失礼ながらそれこそ謎過ぎて、謎が謎を呼んでいます。「いつもありがとうございます」なんて定型句だけではぜんぜん足りない、もう「すごい」としか言いようがありません。いつもすごいやつをありがとうございます。えらいこっちゃ。わたしもチャットはあの日だけでした。