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日記720



2月29日(土)


「お兄さん、キャラメルコーンとって」。ご高齢の女性に、スーパーで話しかけられた。すこしはにかむような表情で棚の上段を指さす。「あれ。高いところの、とれん」という。関西なまりだった。「ありがとう、ごめんな」「いえいえ」。ゆったりとした口調。京都っぽいかなと思った。なんとなく。




柵に「じさつOK」。語弊があるけれど、やさしさを感じた。語弊しかない。たとえば、こんな種類のやさしさもある。としたい。外側を示唆してくれる。内にとどめられるばかりではしんどい。例外的なことば。窓みたいなものだ。穴でもいい。たまに、ぽっかりとひらける心の部分。扉ではない。

気まぐれにちらっと覗いて、「ひー」なんつって、もどる。ときどき開けて楽しむんだ。うつろな穴を。ひとつの、人間の習性ではないか。やさしさというより、ユーモアの精神にちかいものかもしれない。


本物のユーモアを身につけるためには、まずペシミズムの果てまで行き、深淵を覗きこみ、そこに何もないと見て取ってから、そろそろともどってくる……


沼野充義『スラヴの真空』(自由国民社)より。たぶん。手元に本がない。読書メモから引いた。感覚として、しっくりくるお話だと思う。「何もない」を確認する。そしてもどる。「何かある」と思ってしまうと、ユーモアは遠ざかる。深淵に覗きこまれている。もどらなくては。そろそろと。

「ガルゲンフモール」というドイツ語のことばも想起する。絞首台のユーモア。「曳かれ者の小唄」とも訳される。花田清輝は「窮余の諧謔」と訳した。この場合、もどれない。しかし「何もない」に直面している点では共通している。もう先がない最果てにおいて、諧謔を飛ばす。

さいきん、祖母が「戦争より嫌だ」と口癖のように言う。ギャグのつもりらしいけれど、あまり笑えない。たとえば新型コロナウィルスのニュースを見ながら「戦争より嫌だわ……」とつぶやいたり、天気が悪いだけで「戦争より嫌だね」と同意を求めてきたりする。毎回毎回「そんなに……?」とおそるおそる聞き返すハメになる。

おそらく祖母にとっての「戦争」とは、上記の「何もない」に等しい概念なのだろう。つまり「ペシミズムの果て」に位置する。じっさいにそろそろともどってきた人間として、リアルガチなユーモアをご披露なさっているのだ。

「もうすぐ死ぬ」みたいなことも祖母は笑って話す。まさに「ガルゲンフモール」の精神である。わたしはそこでつい、「そうだね」と相槌を打ってしまう。そうだと思うから。忌憚なく。すると祖母は「そうだねじゃないわよアンタ」と言って、また笑う。

「死ぬ」と自分から切り出して、「そうじゃない」と自分で元にもどす。深淵をチラ見してから、もどる。相槌を梃子に。この往還が笑いをもたらす。しかし「そうだね」という、わたしの相槌はいかがなものか。祖母は自分で元にもどすのではなく、もどしてほしいのではないか。ものごしが「じさつOK」と変わらない。

いや、老いて死ぬことに理不尽はないのだ。自然なこと。もう大丈夫。あとは死ぬだけ。どんとこい。ぜんぜん。いつでも。たとえば、こんな種類のやさしさもある。としたい。





コメント

anna さんのコメント…
「老いて死ぬことに理不尽はない。」そうですね。誰かが亡くなったときの理不尽さって、本人だけじゃなくて、残された周りの人間にも沸き起こる感情じゃないように思います。寿命がきて亡くなる時だけじゃなくて、病気や事故で亡くなる時でもそんな気がします。私も、親がだいぶ前にいなくなってしまいましたが、残されて最初に感じた感情は悲しさ以外では「当惑」でした。理不尽さは、直接関係しない第三者が冷静に他人に思い入れたときに感じる気持ちのような気がします。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「人は病気で死ぬのではなくて、寿命で死ぬ」と近田春夫が数年前にラジオで話していたのを思い出しました。すべての死は「寿命」なのだと思います。そう乱暴に言い切ってしまいたい。寿命と思うよりほかない、というか。死は理不尽ではないのです。そりゃみんな死ぬよ!

それよりずっと理不尽なのは、誕生です。生きている時間です。これは「世界が広大無辺のボケに思えて仕方がない」と前に書いた(日記712)、その感覚と関連します。死を含みこみつつ、生きているということ。理ではとうてい尽くせない。汲めども尽きぬボケ。生まれちゃった。なんてこったい。

annaさんのおっしゃる「直接関係しない第三者が冷静に他人に思い入れたときに感じる気持ち」。ひとことであらわすと、「かわいそう」ですね。