枯枝だけれど、咲いているみたいだった。 わたしはこの写真が好き。 写真は他人事だ。自画ではない。と思う。だから遠慮なく自賛する。撮った人間は自分でも、写るものは自分とはちがう。自分の外側にある。見えたもの。自分の写真ではないと思う。写真は写真でしかない。「自分の」とはいえない気がする。ただ見せてもらった。誰かが見せてくれた景色。こんなんあるけど、見る?どれ、見して見して。いいね。それが写真になる。きっとそう。 自分がいかに限定されたリアリティの内にこもって生きていたか。9年前、震災に触れてそんなことを考えた。今回のウィルス騒ぎでも、まったく同じことを思う。現実は自分なんかが思い描くよりずっと遥かに広くて茫洋として掴みどころがなくワケがわからない。 逆に、こうもいえる。「限定されたリアリティ」が人間の知性をかたちづくっているのだ、と。状況に沿って範囲を限定するからこそ思考が成り立つ。いちいちすべての可能性を考慮していたら身動きがとれなくなる。ものごとをある程度プラクティカルに捕捉するには、可能性の大半を捨象しなければならない。思考プロセスは必要な情報だけをうまく抽出するためにある。 誰かが何かを発言すると、私たちの音声認識システムはその要点や、発言の本質的な意味だけを抽出しにかかり、それ以外はすべて忘れる。同じように複雑な因果システムに遭遇すると、要点のみを抽出して詳細は忘れる。 『知ってるつもり 無知の科学』(早川書房)という本を1月に読んでいた。スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバックの共著。翻訳、土方奈美。認知科学系の本は冷静さを保つための薬になる。にわかに社会が躁状態に陥っている、いまのような時期はとくにこんな系統の本を読みたい。 この本によると、思考は集団的な行為らしい。ということは、「いま自分はどのような集団に属しているのか?」「この人はいかなる集団の成員として発言しているのか?」そんな問いが自他の思考を解きほぐす鍵になりうる。背景にあるコミュニティを読む。人が想定する集団は状況に合わせ変化する。そのたびごとに思考のフレームも移り変わる。問いを注意深く保持しておこう。 ほとんどの人にとって、「社会」は、「近所」「職場」「仲間内」「家族」といった程度に限定されている。 森博嗣『自分...