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3月, 2020の投稿を表示しています

日記723

枯枝だけれど、咲いているみたいだった。 わたしはこの写真が好き。 写真は他人事だ。自画ではない。と思う。だから遠慮なく自賛する。撮った人間は自分でも、写るものは自分とはちがう。自分の外側にある。見えたもの。自分の写真ではないと思う。写真は写真でしかない。「自分の」とはいえない気がする。ただ見せてもらった。誰かが見せてくれた景色。こんなんあるけど、見る?どれ、見して見して。いいね。それが写真になる。きっとそう。 自分がいかに限定されたリアリティの内にこもって生きていたか。9年前、震災に触れてそんなことを考えた。今回のウィルス騒ぎでも、まったく同じことを思う。現実は自分なんかが思い描くよりずっと遥かに広くて茫洋として掴みどころがなくワケがわからない。 逆に、こうもいえる。「限定されたリアリティ」が人間の知性をかたちづくっているのだ、と。状況に沿って範囲を限定するからこそ思考が成り立つ。いちいちすべての可能性を考慮していたら身動きがとれなくなる。ものごとをある程度プラクティカルに捕捉するには、可能性の大半を捨象しなければならない。思考プロセスは必要な情報だけをうまく抽出するためにある。 誰かが何かを発言すると、私たちの音声認識システムはその要点や、発言の本質的な意味だけを抽出しにかかり、それ以外はすべて忘れる。同じように複雑な因果システムに遭遇すると、要点のみを抽出して詳細は忘れる。 『知ってるつもり 無知の科学』(早川書房)という本を1月に読んでいた。スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバックの共著。翻訳、土方奈美。認知科学系の本は冷静さを保つための薬になる。にわかに社会が躁状態に陥っている、いまのような時期はとくにこんな系統の本を読みたい。 この本によると、思考は集団的な行為らしい。ということは、「いま自分はどのような集団に属しているのか?」「この人はいかなる集団の成員として発言しているのか?」そんな問いが自他の思考を解きほぐす鍵になりうる。背景にあるコミュニティを読む。人が想定する集団は状況に合わせ変化する。そのたびごとに思考のフレームも移り変わる。問いを注意深く保持しておこう。 ほとんどの人にとって、「社会」は、「近所」「職場」「仲間内」「家族」といった程度に限定されている。 森博嗣『自分

日記722

3月14日(土) 桜木町。22時過ぎ。不要不急の外出。 帰り道に撮る。寒い夜だった。とても。行きには雪が降っていた。ヒートテックにジャージを羽織って家を出た。下はジーンズ。ジャージ上下でもよかった。いつでもどこでも近所のおじさんみたいな姿でいたいと思う。 さいきん、もっぱらジャージを着る。軽くていい。至り着いた感がある。三十路を過ぎてやっとジャージの境地がひらけた。そして髪型は丸坊主。身軽さと、機能性を何より優先する。洒落っ気はほんのすこし。できるなら、これで一生を過ごしたい。いまの気分はそう。 必要最小限のものだけ身に負う。もともとそんな人間なのだと思う。冷淡な質。人とのコンタクトも必要以上にはとらない。しかし「必要」は自分の判断だけで決まるものでもない。そこがむずかしい。何が必要で、何が不要なのか。わからない部分も多々ある。 とりあえず普段着は、自分の一存の範疇にある。 だから、ジャージに決定。 世の中ではいま、「不要不急の外出は控えるように」といわれる。「必要」について考えてしまう。人生そのものが不要不急である気もする。不要不急の人生。あんがい、よい心構えかもしれない。向かったのは桜木町のロック酒場、ボーダーライン。 大きな声で「行く必要がある」とはいえない。だけど不要ともいい切れない。店名から境界線を意識する。正確な店の名前は、ACROSS THE BORDERLINE。要不要の境界も、入ってしまえばすでに乗り越えているのだろう。どっちでもいい。わしゃしらん。 お邪魔すると、リハーサル中だった。思っていたより早く着いた。ワルイコのライブ。わたしにとってはお馴染みの、ふたり組(Vo. Gt.のワルイコ)+α(Per.のイイコ)が見えた。「こんにちは」なんつって侵入。いちばん乗り。手持ち無沙汰に思いながら、ひとまず座って本を読む。リハーサルの音をBGMに。贅沢な束の間だったかもしれない。 ワルイコは大きく見えない。そこが好き。人前に立つ人間は、たいてい等身大より大きく見える。じっさいステージには人を大きく見せる視覚的な効果がある。でもワルイコは大きくならない。大きく見せたい気持ちも、きっとない。 ボーダーラインに高いステージはなかった。客席とほぼ変わらない目線で演奏がなされる。それ

日記721

窯に入れて溶かすみたいな。ドロドロに。人になにかを見せるってそんなことなのかも。なんでもそう。なんでも。ドロドロにしてもらう。あるいは、ドロドロになってしまう。いやでも。とにかくドロドロになる。ああドロドロ。 めでたしめでたし。