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日記722



3月14日(土)


桜木町。22時過ぎ。不要不急の外出。

帰り道に撮る。寒い夜だった。とても。行きには雪が降っていた。ヒートテックにジャージを羽織って家を出た。下はジーンズ。ジャージ上下でもよかった。いつでもどこでも近所のおじさんみたいな姿でいたいと思う。

さいきん、もっぱらジャージを着る。軽くていい。至り着いた感がある。三十路を過ぎてやっとジャージの境地がひらけた。そして髪型は丸坊主。身軽さと、機能性を何より優先する。洒落っ気はほんのすこし。できるなら、これで一生を過ごしたい。いまの気分はそう。

必要最小限のものだけ身に負う。もともとそんな人間なのだと思う。冷淡な質。人とのコンタクトも必要以上にはとらない。しかし「必要」は自分の判断だけで決まるものでもない。そこがむずかしい。何が必要で、何が不要なのか。わからない部分も多々ある。

とりあえず普段着は、自分の一存の範疇にある。
だから、ジャージに決定。




世の中ではいま、「不要不急の外出は控えるように」といわれる。「必要」について考えてしまう。人生そのものが不要不急である気もする。不要不急の人生。あんがい、よい心構えかもしれない。向かったのは桜木町のロック酒場、ボーダーライン。

大きな声で「行く必要がある」とはいえない。だけど不要ともいい切れない。店名から境界線を意識する。正確な店の名前は、ACROSS THE BORDERLINE。要不要の境界も、入ってしまえばすでに乗り越えているのだろう。どっちでもいい。わしゃしらん。

お邪魔すると、リハーサル中だった。思っていたより早く着いた。ワルイコのライブ。わたしにとってはお馴染みの、ふたり組(Vo. Gt.のワルイコ)+α(Per.のイイコ)が見えた。「こんにちは」なんつって侵入。いちばん乗り。手持ち無沙汰に思いながら、ひとまず座って本を読む。リハーサルの音をBGMに。贅沢な束の間だったかもしれない。




ワルイコは大きく見えない。そこが好き。人前に立つ人間は、たいてい等身大より大きく見える。じっさいステージには人を大きく見せる視覚的な効果がある。でもワルイコは大きくならない。大きく見せたい気持ちも、きっとない。

ボーダーラインに高いステージはなかった。客席とほぼ変わらない目線で演奏がなされる。それで大きく感じないのか、だけど、そうだな……ゆっくりカレーを食べていられる。しかもおいしく。これは重要なことだ。

近しくて親しいものを歌っているからだろう。存在感がないわけではない。なにをしていても、していなくても歌の世界がそばにある。なんら強いられない。ただ確実にいてくれる。その親しさにうれしくなる。

昨年、横浜のアソビルで見たときは、しっかりとしたステージの上に立っていた。それでも、さほど大きく見えなかった。小さくもない。見たまんまのサイズ。高さの演出が通用しないほどの親しさ。「効かぬわ!」といわんばかりの等身大パワー。これは、ほめことばです。

「やる」というより「ある」感じ。音楽がある。やる前からある。すでに。あるものをあるものとして扱う。必要も不要もなく、ありつづける。なんでもない。なんでもなかった。たとえばそんなきょうのことも、歌になる。





なんでもない。でもなかったことにはならないし、そうしたくもない。やっぱりある。スーパーでまるごと置かれていたカニをツンツンしたらわずかに生きていてビビったことや、イカなんかも微妙に生きていてビビることなど。誰に話すこともないが、ある。なかったことにはできない。ついでに自分が生きている事実にもまいにちビビる。いつもいる。なんなのこれ。

ボーカルの山崎ルキノさんが新型コロナウィルスの蔓延に関連して「きょうでさいごかもしれない気持ち」とおっしゃっていた。それは以前からずっと、彼女の歌詞に滲んでいたような気もした。きょうはきょうでさいご。もう戻らない。まいにち。そんな気持ち。意味がちがうかな。おなじにも思う。

いつだって最終回。でもなぜか、終わった感じがしない。時間の連続性を保つわたしがいる。来る日も来る日も。それはほんとうにすごいことだ。朝起きて、びっくりしてしまう。まだつづきがあった。ここにいられる。幾度目かのさいごとして。




終わってから軽くお話をした。
ほとんどの時間、ぼんやり聞いていた。

ひとつ反省点。ギターの石川烈さんに「お酒強いほう?」と聞かれ「強いというのはどういうことなのか」みたいなしちめんどくさい混ぜっ返しを食らわせてしまった。いま整理すると、こう返したかったのだと思う。「身体的なアルコール耐性はある。しかし積極的に飲むほうではない」と。

「強い」という語には、身体的な耐性と態度の積極性の両方がふくまれているように思えて、これを分離したかった。2,3年前なら「強い」と即答できたけれど、いまは飲もうと思わなくなったせい。自分の変化への戸惑いもあったのかもしれない。

それにしてもめんどくさい。そこまで正確にお伝えする必要なんて、まったくないのに。どうだっていい、たんなる会話の導入だ。内容を詰める場面ではない。なんたる無駄な誠実さだろう。

何が必要で、何が不要なのか。斯様にして自分にはわからない。「必要最小限」を志向しつつも、やたら無駄が多い。いまだって書いても書かなくてもかまわないものを夜中にポチポチ打っている。これはなんだ。

要不要のわからなさは、未来のわからなさそのものだと思う。あるいは、他者のわからなさそのもの。自分のわからなさそのものでもある。自分に必要なものは何か。普段着はつねにジャージ。いま決めているのは、それくらい。





コメント

anna さんのコメント…
ワルイコって初めて聞きましたけど、聞きやすい歌声。
私はこの一週間喉が痛くて、少し咳がでて、「え~、ひょっとして?」って思ってびびってました。
何とかそれだけで治りましたけど。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ボーカルの山崎ルキノさんはお芝居もされるので、声の聞きやすさはそのへんからもきているのかもしれません。好きな声です。さいきんはみなさん咳き込むとギクッとしますね。当人も、周囲の人たちも。治ってよかった。わたしもすこし敏感になっています。