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日記724



4月。街は静かで、画面越しの世界はてんやわんやしている。公園ではまいにち、朝からこどもたちの声が響いてたのしそう。春らしく草花も繁る。外は長閑だと思う。これ以上ないほど。いっぽうコンビニに入れば店員さんはゴム手袋をし、ビニール製の遮蔽がレジとのあいだに張られ、ひとり残らずマスクを着用して距離をとり並ぶ。神経質そうに。ほんの数ヶ月前との、ギャップの激しさに戸惑ってしまう。まだ順応できていない。へんな感じ。とても静かで、とても騒がしい。はじめての4月。

とうぜん自分も例外ではない。渦中にいる。感染防止には余念がないし、経済的な実害もこうむった。なのに「画面越し」の慌ただしさについていけない。どこに現実があるのか。季節がただ進んでゆく。桜はもう終わった。だけど寒さは長い尾をひく。きょうも冬着のパーカーをひっかけている。雨音が激しく窓を叩く部屋の中。

本を返さないといけない。図書館が休館する前に、上限まで借りた。10冊。そのうち9冊はすでに返した。とっくに貸出期限の「2週間」は過ぎている。さいごの1冊も読み終わった。しかし返す気になれずにいる。図書館がひらいていた時間の名残を手放したくない。返却は休館明けでいいらしい。例の5月6日まで。ちゃんと再開するといい。ちゃんと返したい。3月に途切れた時間がつながりますように。途絶えませんように。




祖母が施設に入居する。ここのところ、その準備をしていた。事が起きる時はひと思いに連なる気がする。気がするだけなのだろう。すぐ因果関係をでっちあげたがる。脳味噌のくせ。関係ない。世間の騒擾とはまったく関係のない、以前からくすぶっていたお話。

2月中旬あたりから、日の経過が濃密すぎて疲れる。「3つの密」どころではない。景色が変わってしまった。2020年、まだ4月なんだ。ずいぶん年をとった気がするよ。めまいがする。これも気がするだけだ。まだ若い。よかった。あんがい若くて。

疲れる反面、変化はおもしろいとも思う。興味深い。ふだん通りにいかなくなった、その埋め草にふだんやらないことをやっている。多くの人のマインドが切り替わる。いままで通りではいけない。自分もなんとなく、あたらしいことをはじめた。

ほったらかしだったYouTubeを適当に更新している。全体的に雑すぎるので胸を張っておすすめはできないけれど、いちおう貼っておこう。本の話をしたり、歌をうたったり。長い目でみて、金策になれば。年単位の長い目でみて。いまはただ、たのしんでいる。思いついたことぜんぶやる、くらいの気持ち。実験みたいに。なにせひとりだ。誰の許可もいらない。見る人もまだ数人だけ。







サムネイルが弾き語りっぽくなったが、いっさい弾いていない。歌声が渋谷系っぽいそう。具体的には小沢健二。似せているわけではない。正直、あんなダバダバいうやつといっしょにされたくないと思う。わたしは「ダバダバ」よりも「パヤパパ」が好きなのだ。歌うなら「パヤパパ」だ。

いや……冗談です。素直に受け取りたい。できるだけ。でも意外。歌をまじめに録ってみて「ワシ、こんな路線上にいたのか」と思った。もっと目が死んでる人間のつもりだった。ドブ川で這いつくばるボウフラのつもりだった。

セルフイメージの変更を迫られる。思いのほかキラキラしている……?キラキラしても、よいのだろうか。いや、そんなはずはない!潰れた虫みたいに、へんな汁を垂れ流しながら生きていたはず。自分が歩んだ道の上には絶えずへんな汁が粘ついていたはずだ!ヌメヌメの!緑色の!キラキラしていいのは、へんな汁の轍だけだ!小沢健二?ふざけるな!と、そんな葛藤のうちから抜け出せない。屈託がすごい。もっと素直にぼくがしゃべれるなら……。

それはともかく「夜のはじまり」、もとの曲はこれ。







きっかけをくださったワルイコさんに感謝したい。許せたのだと思う。自分を、すこし。歌うことが好きだった。そういえば。歌っていい。いつでも、どこでも。うまくなくても。「誰の許可もいらない」わけではなかったね。まずは自分が自分に許可をださなくては。いちばん自分を制限している人間は、自分にほかならない。

口幅ったい話だけど、暗い時代ほど文化的な活動が価値をもつのだと思う。明るいときには見えなかった光が暗闇に深く映じる。










どんなふうに見えるだろう
どんなこと言うだろう
あの頃のぼくが今
うたうぼくを見たら








夜がはじまる。







コメント

anna さんのコメント…
歌聞きました。予想外にと言ったら失礼かもしれませんが甘い声です。いいと思いますけど。
コロナのせいで京都も人が少ないです。
リモートワークに縁のない私は、今でも仕事に出かけて京都駅地下のコンコースを通りますけど、見渡しても私しかいない時がありました。あんなにごった返していたのに。
ひょっとしたら前にも話したことがあったかもしれませんが、「渚にて」って大昔の映画で、人類最後の時も、人々は日常の中で静かに滅びていくって描写がありますが、それ思い出しました。
ああ、やだなー。早く普通の日常に戻らないかなあ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ありがとうございます。

声はほんとうにありがたい、授かりものです。加えて、自分でトレーニングした部分もあります。これをどうにか有益に使えればいいなと思っています。でも、声のいい人なんていくらでもいるんですよねー。これから生活が厳しくなりそうなので、すこしでも糧につながればって感じです。
使えそうなものはぜんぶ使う!笑

「終息」に関してわたしは悲観的に考えています。わからないけれど、楽観的に過ごして梯子を外されるよりはいい。いまさっき、「平常に戻る」ことはない、というタイトルのブログ記事を読みました。英国国立科学技術芸術基金(NESTA)の分析を翻訳した記事です。

https://okuranagaimo.blogspot.com/2020/04/blog-post_18.html

杞憂に終わるといいかな。『渚にて』は、閑散とした街のカットが映し出されて終わるんですよね。誰もいない街の風景に、ぞっとする。人間の感性ってやっぱ集団性に基づくものなんだなーとさいきんよく思います。