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日記725




近所の居酒屋が朝からクレープを売っていた。しばらくクレープ屋になるらしい。わたしにとって2020年の春は、「居酒屋がクレープ屋になるほど大きな社会変化が起きた時期」として記憶されるのだろう。後世に語り継ぎたい。教科書の一文になればいい。いまこの国は、居酒屋がクレープ屋になるほどの大騒動に見舞われている。






4月30日(木)

メモ。

大きくふたつ。正当化と、つぐないがある。罪への態度。なんの罪もない人としての在り方と、罪人としての在り方。人の存在様式。わたしは後者に焦がれる。カタギじゃないなって人。とはいえ、この両者はパキッと分かれているわけでもない。ひとりの人間の裡に混在する要素だと思う。状況に左右されることもある。でも、人によって傾向の差は見られる。

罪人としても、ひらきなおってしまえばそれは正当化だろう。あくまで罪を認める。そこからことばを始めたい。そこでことばが終わるのではない。処し方なく、刑に服す。しょうがない。しょうがないんだ。ここは流刑地だった。思い出した。そんな詩を書いた人がいた。地球は美しい、流刑地なんだって。

上記の「罪」と社会的な法制度はまったく関係ない。
一個の自己認識に関するお話。
あるいは信仰とか、倫理とか。
人間の読み方。






さいきん、まいにち1時間前後のストレッチをしている。家で適当に。ストレッチは、身体にかたちを与える運動だと思う。ひとつひとつの筋肉をかたちにする。くっきり。身体の深みへ分け入って。手で分けまくる。身体を分かりやすくする運動ともいえそう。

全身ができるだけ、くまなく機能すれば理想的かな。でもまだまだカタイ。難解だ。すんなり、シンプルに解けるよう片時も忘れず意識したい。自分の身体は、一生つきあう問題集みたいだ。問題だらけで、ときにまいってしまう。それを根気よく、すこしずつ解く。解けなくとも、念頭に置く。気分転換に数独をやるような感覚で。

前々から手軽なストレッチはつづけていて、ひどい猫背はなんとなく解消した。数年前より、すらっと立てる。そのぶん、背が伸びたかも。骨盤の位置とそれから、腹式呼吸を意識できるようになって大きく変わったと実感する。深い呼吸を心がけたい。






身体ってふだん、思い過ごしている。それは自分の身体にさしたる支障がなく、うまくいっているおかげでもある。いわゆる「健常者」として。しかしつぶさに感覚してみると、うまくいっていない部分も多いことに気がつく。ポテンシャル比でいえば健常とはほど遠い。使えていない。伸びない、動かない。縮こまっている。ごまかしていたのだ。見ていなかった。知らなかった。足指の可動域も、肩の位置も、肋骨の不揃いな突端も。

まずは身体越しの世界を深めたい。ことば越しの世界に気をとられる前に。身体という物質がまずもってわたしだった。言語以前に置かれた物体。ことばにとって身体は異物なのかもしれない。外から入ったもの。とすれば、身体にとってのことばも異物。だからコミュニケーションを怠ると、どんどん離れ離れになっちゃう。もともと赤の他人同士だったもの。ストレッチはきっと、身体にことばを馴染ませる運動でもある。全身にことばを走らせ、切り分けてゆく。






書きことばには、骨っぽい手触りがあります。感受性の骨格をなすもの。内側に埋まっている。漢字の祖型をたどると甲骨文字にあたる。そうそう。……関連するようなしないような。思い出しただけ。話しことばは肉っぽい。「肉声」という熟語がある通り。筋肉の働きからダイレクトに出る。そのまんまだ。

わたしの話しことばは、すこし骨ばっている。ところどころ硬質。書きことばが滲んでしまう。方言の一種みたいに。「むろん」と口走って、「むろんってなに?」と聞き返された経験が数回ある。「であるからして」を笑われたこともある。高校生のとき。こういうの、ある村の方言なのだと思う。文語方言。

逆にLINEなんかだと、話しことばっぽい書きことばが求められる。わたしはチャット的な短いことばのやりとりがあまり得意でない。ゴリゴリ書いてしまう。LINEとはいえ、残るものだし。話さない。ちゃんと書く。油断せず、できるだけ。ワシは油断せんぞ!と突っ張りつづける頑固親父が自分の中にいる。突っ張ることが男のたったひとつの勲章だってこの胸に信じて生きていく。

Twitterもチャット的な傾向があって馴染めない。SNSごとにコミュニケーションの種類はちがう。眺めているぶんにはおもしろい。文字ベースだけでも身のこなしは多様だ。






それはさておき。

思うに、身体はふたつある。物理的な実体と、そっからのフィードバックを受けて脳味噌がモデリングする仮想的な身体。両者はふたつでひとつ。たぶんね。実体と仮想。このあいだに誰しも多少のズレがある。齟齬や遅延を矯め直す時間を一日のうちにつくっておきたい。







ふたつあるんだなーと思ったのは、この武井壮さんの説明を聞いて。スポーツをやる前に、きちんと自分の身体をやる。おもしろい。「目をつぶる」ってのも重要かなー。




コメント

anna さんのコメント…
コロナのせいで掃除するか散歩するかスーパーに買い物行くかしかやることがありませんね~。
自分の部屋にずーっといるのも飽きてしまいますから、私の歩く以外のたったひとつの交通手段のママチャリに
乗って近所をぐるぐる回ります。運動不足解消です。
そしたら、カラオケ屋さんが店の前でmade in chinaのマスクを山積みして販売してました。
カラオケからマスクへの展開は意外性がありました。でもどっから仕入れたんだろ。

むろんって論ずる必要の無いっていう「無論」ですよね。「もちろん」の意味だと思ってますが、そもそも
「もちろん」ってなんなんだろ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
コロナのおかげでコメントの返信もすみやかです。わたしはよく「せいで」を「おかげで」と言い換えます。悪いことでもなんでも、おかげさま化する。できるかぎり肯定的に、すこしの皮肉も込めて。

「ぐるぐる」ね。そうそう、うちの近所でもぐるぐるしている人を多く見かけます。自分もぐるぐるしながら、動物園の熊が檻の中でひたすらぐるぐるする光景を思い出す。人間も暇だと、ぐるぐるするんですね。不要不急ではなく、人には「ぐるぐる」が必要なのです。

たまにダッシュしたり、ジャンプしたりすると楽しいかもしれません。ジャンプはおすすめですよ。大人はジャンプしなさ過ぎだと思う。飛ぶだけで、けっこう気分転換になります。全身を揺らすこと。人には「ぶるぶる」も必要なのです。

いまマスク屋さんは大繁盛ですね。ほかにも各地でさまざまな転換が繰り広げられていそう。自分も変更を余儀なくされる部分が多々あります。楽しんでやれればいいかな。適度に悲観的な見通しのうえで。

「むろん」や「もちろん」が意味するもののひとつには、ガードがあると思います。「一般にはこう言われる」という軸を参照しつつ、そこからひとつ踏み込んだ話をするための。事前に「もちろん、ふつうはこうだ」とツッコミ避けの防壁を築く。ほかに、「こんなのあたりまえっしょ?」みたいな攻撃的ニュアンスもありますね。

辞書的な意味ではなく、心理的な意味合いね。
わたしはガードで使うことが多いかな。
ディフェンシブ!