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日記726





「人は自分が見たいものしか見ない」と、これに類する話をよく見かける。なんちゃらバイアスみたいな。「目は心が理解する用意があるものだけを見る」。これはベルクソンのことば、らしい。tumblrで見かけた。もう何年も前。たくさんReblogされてた。

誰にでも、信じつづけたいものがある。たぶんね。信じたい。信じさせてほしい。無意識にも意識的にも、陰に陽にある。その「信じつづけたいもの」を肯定してくれるなにか。なにかを持して生きている。そこがきっと、それぞれにとっての、やさしさの在り処なのだと思う。

たとえばそれは、人形やぬいぐるみであったり。
信じつづけたいものを、信じさせてくれる姿かたち。
種々の偶像たち。

「信じつづけたいもの」とは、言い換えれば自由の預け先。わたしの自由を預かってくれるなにか。自由は預けるためにある。このごろ、そう感じるようになった。預け先は、たくさんあるといい。好きな人にちょっと預けてみたり。会社に預けたり、テレビやSNSに預けたり。映画に預けたり、音楽に預けたり。スポーツに預けたり。科学に預けたり、文学に預けたり。お国に預けたり。神さまに預けたり。

生まれて間もない赤ん坊はまず、育て親にガツンと自由を預ける。命をかけて。何者でもない不定形のちいさな身を預け、親からたくさんの不自由を借り受ける。はじめに名を借り、居場所を借り、そして毎日のことばを借り、周囲の不自由を養分として成長する。

やがて不定形だったものに、かたちが備わる。人はさまざまなもののかたちを借りて、その姿をつくる。音楽のかたちを、科学のかたちを、文学のかたちを。わたし自身をかたちづけるために。不具にしてもらうんだ。「ある」とはすなわち、不具であることだ。

預け先となる「かたち」の根底には、身体とことばがある。わたしは物事の根っこに興味を抱きやすい。根なし草のように足元がおぼつかないせいか。身体の不自由なかたち、ことばの不自由なかたちを多すぎるほど借り受けてやっと地に足がつく。日々、自由を預けて不自由を借りる。「ない」を預けて、「ある」を借りること。

ちょっとなに言ってんのかわかんないかもしれない。べつにいいか……。おそらくは自分も、誰かの自由の預け先として機能している。このブログも不具者が描いた「かたち」のひとつ。わたしの自由がほうぼうから借り受けた、不自由のかたちです。そんな自覚のもとに書いている。不具にしてもらった結果がこれ。

上記の内容をまとめると、こう。
一行で、端的に。



お前がよく死ねる、そのように生きよ。






ぐるぐる似たようなことばかり考えているせいか、いつも既視感がぬぐえない。しかしまったくあたらしいことなんて書けないから、よいのだと思う。おんなじような考えがすこしずつズレて輻輳する。そういうものだろう、頭のなかって。ちいさなパターンの重なり合い。ミニマル・ミュージックみたいな。





コメント

anna さんのコメント…
自由を預けて不自由を貰うって話は、私も共感しました。
ただ、私が一番実感したのは、高校卒業して暫くの時期、お金がなくてめっちゃ困ってた時に経験した「経済的自由」ですかね。自由の定義にもいろいろあって、「経済的な自由」は、行動や考えの自由と基本的に同レベルなのかなと今でも考えています。そういう自由をわかりやすく数字で表してくれるお金って便利だなあと思います。
それにしても最初の捨てられるくまさんの画像、かわいそうです。
nagata_tetsurou さんの投稿…
読み直して、医師の熊谷晋一郎さんがよく述べておられる「自立とは依存先を増やすこと」を思い出しました。「依存先」は、ここでいう「自由の預け先」です。「不安は自由のめまいである」という、キルケゴールの有名なことばをあてはめて「不安の預け先」と言い換えることもできそうです。めまいのうちに倒れ込まないよう、自由を預ける。

共感ありがとうございます。
わたしの文章は心配するほどわかりづらくもないですね。
たぶん!!

お金はまさに、自由から不自由を得る典型かも。さまざまなものと交換できる通貨で、ひとつを買う。お金がたくさんあればその選択肢が増えますね。窓がひらいて、開放的になる。おっしゃるように、行動や考えの可動域も広がります。

商品を得る以前の、選択の自由を楽しめる。「ほかにもいろいろある」と思えるかどうかは、気持ちの余裕に直結すると思う。人生いろいろ。ことばだけなら、お金がなくても深めたり広げたりできるかな。読書はコスパ最高だと、よく思います。笑

くまの写真、穴のあいてるとこが何かを訴えているようでまたなんともですね。