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日記728




かわいいの撮れた。爬虫類が苦手な人にも、この写真はかわいらしく思ってもらえるのではないだろうか。鼻先だけ出して、じっと。なんて愛らしいのだろう。辺りをうかがう真っ黒なひとみ。撮った直後するっと這い出て、草陰に消えた。

数日前、『読書で離婚を考えた。』(幻冬舎)という本を読んだ。円城塔と田辺青蛙、作家ご夫婦の共著。相手に読ませたい本を指定して、むりやり読ませあうエッセイ。タイトルは大袈裟。むしろ良い夫婦仲が垣間見える。

噛みつくにせよ距離感をわきまえているというか……いやちがうな、噛みつけど噛みつけど噛み合っていない。空を噛んでいる。そこがおもしろい。互いに互いのことを「おかしな人だなぁ……」と不思議がっている感じ。ぜんぜんちがうふたり。

どちらかといえば、わたしは几帳面な感じの円城さんにシンパシーを抱く。田辺さんの気まぐれさもなんとなくわかる。でも円城さんの感覚は、僭越ながらごく一部とても似ているとさえ思う。たとえば、こんなところ。


 どうも世の中、筋道の立てようもなく雑然として混沌としたものがほとんどである――とわかってきたのは、ついこの頃のような気がします(ま、結婚以来ですかね)。世の中、全然きちんとしていない。もっと頑張れ、物理法則とか論理とか整合性とか。
 ボケに突っ込み切れると思ってはいけない、ということでもあります。正気でいると突っ込み疲れるナチュラルボーン・ボケ宇宙に僕たちは住んでいて、真面目そうな顔をしていられるのは、突っ込み疲れて頭が麻痺しているだけなのでは、と思ったりもするわけです。 p.36


そうそう、宇宙はボケ倒している。わたしも「世界が広大無辺のボケに思えて仕方がない」と日記712に書いていた。マジで論理とか整合性とか、もっと頑張ってほしい。物理法則のやつは、わりとまいにち頑張っていると思う。わたしをちゃんと地球に留め置いてくれているから。地球の引力にそっぽむかれて、落ちても、落ちても、着くところがないような、悲しいことにはならない。

だらしがないのは論理と整合性、お前らだ。きちんとしろ。ビタッとカチッと、お願いだから。そうじゃないとこわいから。ぜんぜん説明がつかないから。人間もふくめたこの世界のボケっぷり、ちょーこわいから。おもしろいボケもなかにはあるけれど……。

生きているかぎり、宇宙規模のボケはどこまでも追いかけてくる。この世界はボケがボケを呼んで構成された、いわばボケボケワールドなのだ。歴史はつねにトラブルをさらなるトラブルで解消してきた。それがいくらでも繰り返されている。アホみたいな笑劇として、一度目から。そんなこの世である。

かくいうわたしも「お前は論理的・整合的か?」と自身へ問うてみれば、答えに窮する。というか、てめえのブログを一読すれば瞭然だ。窮するどころか、論理性のかけらもなく「しらん」と一蹴できる。しらん。わしゃなんもしらん。宇宙とともにボケゆくままだ。もはやなんら突っ込む気力がない。いや、この時期に大地震がきたらさすがに「ええかげんにせえ!」と絶叫するかもしれない。そんなんしやんでほしいが、地球のやつはそんなんを平気でする。やるときはやる。ちょっといかがなものかと思う。もっと人間のこと、考えてよね!!






「似ているところ」に話を戻そう。

ほかには、妻が夫を「煙のようにどこかに消え去ってしまわないかと心配」するようすも、なんだか身に覚えがある。「ユー、いきなり消えそう」みたいなことを親しい人から言われる。わたしは自分でも意外なほど図太く生きていて、消える意志などまったくないのに。でも、わからない。意志とは裏腹な出来事だらけだし、ノンストップでボケまくるこの世のことだし……。

あと、食に関する姿勢も似ている。


 僕は結婚するまで、食べ物は口に入ればいいやという性質で、むしろそれだけを食べていれば生きていけるという食品はないものか、と本気で思ったりしていました。
 今でもたまに思います。どうなんでしょうね、ソイレント。p.128


わたしも食べる物にはあまりこだわらない。ソイレントのような完全食があれば理想。これだけ!と決めてしまえばあとがラク。ただ矛盾するようだけど、料理はする。好きでもないものを作る。この点も同様でおもしろい。「やってるうちに好きになるかも知れないから」と円城さんは書いていた。そうそう、とうなずく。

似ているトコは、こんなぐらい。
あとはまるで別人。
というか、そもそも別人。






円城さんは、おやさしい方だと思う。たとえば田辺さんが本を指定する際に「(既読だったらすみません)」と謝りを入れると、そこへ「既読だと駄目というルールはない」とわざわざ注釈をつける。表現は冷淡だけれど、メタな意味としては「謝る必要なんかないよ」と告げている。やさしさに裏打ちされた突っ込み。この本には、こういう細かな気遣いがちりばめられている。タイトルに反して、ちょーラブい本だと思う。

妻へ、生活上の改善要求を指摘したのちの「理解」もラブかった。


 これは改善されることがない、少なくとも今生では、と。p.299


夫は、そう理解したらしい。え、なに、来生もいっしょになろうってか?と、ニンマリしてしまう。あまーい。わたしの読みが、ややスイート過ぎるだろうか。「改善されることがない」という諦念もなかなかラブく読める。べつにいいんだ、そんな改善なんて。自分の要求を通すより、ふたりの長期的な関係を優先している心が見てとれる。ような。ラブ詰まってますよ先生、この一文。






「互いに互いのことを不思議に思う」ぐらいの距離感がもっとも長続きしそう。この本を読んで、さらに自分の実感も加味して思う。夫婦でも友達でもなんでも。「おかしな人だなぁ……」と首をかしげあって、おもしろがる。謎をめぐる関係。わかりあおうなんてしないで。答えなんか出さない。知らないまま。おかしなふたりのままでいること。

個人的に長く付き合いのある人をわたしは全員「おかしな人だなぁ……」と思っている。みなさん最高におかしい。おそらく向こうからも「おかしな人だなぁ……」と思われているにちがいない、とわたしは思っている。が、そこはわからない。どうでもいい。

誰かのなかに謎を見留めたら、その謎を解こうとしてはいけない。解かれるのを待っているかのように見えたとしても。待っちゃいないし、そもそも解けやしないんだから。解けないうちが花なのよ。解けたらそれまでよ。お互い、まちがった解答をたのしめるといい。おかしな勘違いを、笑いあって。いつまでも。

以上が『読書で離婚を考えた。』から得た結論。
そんな本、だったと思う。
ちがう可能性も高い。






YouTubeをマメに稼働させようと思っていましたが、早くもあきらめモードです。収益化なんて、たいへんなことだ。「緊急事態」なんつー宣言をくらって、わたしも焦ったんだと思う。浮足立っていた。危機に瀕すと人は本性をあらわすなんていうけれど。「緊急事態宣言」の下でわたしが新たにはじめたのは、YouTubeの更新とギターの練習。平和か!

経験上、焦るとろくなことにならない。これは何度も書いていると思う。自分はそういうタイプの人間です。力を抜くとうまくいく。てきとうに。だから抜き方の研究には余念がない。来週、祖母が施設に引っ越す。生活がすこし変化する。1日がいくらかいままでより長くなるだろう。ゆっくり過ごそう。時間のあるうちは。




コメント

anna さんのコメント…
へび?へびですか?無理です~。6本足の虫さんよりは、まだ大丈夫ですけど。
「論理とか整合性とかは、言うほどさしたるものではない」って誰かの書いた本でなんか読んだことあります。
まあ、そーかなあと論理性の無い私は変に納得したような。
nagata_tetsurou さんの投稿…
たぶんニホントカゲです。野菜嫌いな人でもモリモリ食べられるテイストに仕上げたつもりでした。拡大してみるとかわいいんです。よく知らなくて、慣れていないだけですよ。あるいは幼少期のトラウマか、爬虫類に住処を追われた経験がおありか……。似たような生き物のヤモリなんかは、縁起のよいものと言われていますね。家を守ってくれる。なにを言われようが無理なものは無理かな。

論理や整合性に価値をおく人は、こういうときにあれこれ説明をつけて仲介したくなります。しかし経験上、そんなものは通用しない場合がほとんどなので「言うほどさしたるものではない」とわたしも思っています。ただ、自分としては論理性・整合性を美的に感じることもあって、「しらん」と書きつつ捨て置けないところですね。

できるだけ写真は整合的に収めています。ぴったりしたい。そゆところ。