スキップしてメイン コンテンツに移動

日記729




やりなおしている。そう思う。過去の、いつかの、やりなおしを生きている。輪廻とか、そんな話ではなく。もっと短いスパン。きのうだったり、1年前だったり。幼少期だったり、思春期だったり。あのときのアレを。

あくまで現実に生きた日のやりなおし。それが現在の自分に課された日々であるような。来る日も来る日もやりなおす。といっても、同じ日はない。歴史は繰り返すのではなく、歴史に対する人間の判断や行動が繰り返す。と、たしか中井久夫が書いていた。そう、人間はどうしたって繰り返しちゃう。だから、やりなおす意志を絶やさずにおく。

ずいぶん内省的になったと、数年前の日記と現在を比較して思う。ことばが内側へ向かい始めた。やりなおして、やりなおして、ようやく。これは良いこと、たぶん。文章も以前より比較的ととのっている。少しはマシになった。

人は、問いを聞くのだと思う。「話を聞く」とは、問いを聞くこと。 さらにそこから、問われる者としてのみずからを照らすこと。いつも問われている。逆にいえば、問われなければなんら聞こえない。同様に、目にも入らない。問いを聞き、問いを見ている。

ただ問いを深めたい。聞く耳と、見る目を保つために。話す口だってそうかもしれない。書く指も。しかし毎度、ありきたりなことばかり書いたり話したり。きのう生まれたみたいに。なんせやりなおしだった。「あたりまえ」を再発明/再発見して、ひとりおどろいてばかり。まったくね。

高校生のころ、数学の教師に「幼稚園からやりなおせ!」と怒鳴られて意気阻喪したけれど、いまなら「それもいいっすね」なんつって笑える。やり残したことは、どの時間にもかならずある。その時だけではとてもとてもやりきれない。いかなるときも、やりきれていない。悲しくても楽しくても。だから、もう、ずっと、やりなおしている。






2020年5月、祖母との同居生活が終わった。何年も居をともにした人がいなくなるのは寂しい。反面、予想していた通り余裕ができた。家という空間の変質を感じる。空間が変われば、時間の感覚も変化する。祖母の時計と自分の時計、2種類の時をつねに意識せざるを得ない状態になっていた。

この半年は特に。24時間態勢のケア労働で、「老い」の一例を祖母からありありと学んだ。人間の壊れ方、というか。人は全員、壊れる。わたしも壊れる。いまも壊れつづけている。一日一日、老いて。さいごは死ぬ。死んで、平らになる。

そういえば、鈴木大介さんの『「脳コワさん」支援ガイド』(医学書院)を、きのう買った。「脳コワさん」とは、脳が壊れた人のこと。著者は「脳コワさん」の当事者。わたしも疲労しやすく、軽度ながら情報処理がうまくいかないときがある。傍目にはわからない。そんなとき、自分で自分を支援するためにも有用な本だと思う。

この支援ガイドには、祖母の行動を想起する記述もちらほらあった。ほかにも、読むごとに思い出す人がいる。「壊れた」当事者の視点から、さまざまな壊れ方が具体的に書かれている。「あのとき、あの人はこんな具合だったのかも……」なんて想像がめぐる。

生きるというのはつまり、「壊れ方」なのかな。祖母と過ごしながらよくそう感じていた。いかに壊れるか。トシを重ねると誰もが否応なくフリーク性を高めていく。そしてだんだんと周縁に追いやられる。寄る年波には、どうせならフリーキーなフロウをもって立ち向かうべきなのだろう。「自分はふつうだ」なんて思ってちゃあいけない。年寄りはみんなフリーキーだ。ふつうじゃない。並外れてる。





ヒップホップ界隈では、ILLなバイブスが称賛を得る。つまり病的なヤツがカッコいい。意味の転倒が起こっている。いや、転倒ではない。わたしに言わせれば、こちらが王道なのだ。「普通が何だか気付けよ人間」である。わたしたちは日々、壊れゆく者として生きている。だいじなのはその「壊れ方」だ。いかに壊れるか。いかにILLでいるか。イカしたラッパーはILLでいる秘訣を知っている。

さて、きょうはどんなふうに壊れようか。そんな心持ちでいられるといい。規範にしがみついてばかりもいられない。いまは規範に沿ったふるまいが可能だとしても、いずれは踏み外す。身体のいかんともしがたさに直面する。壊れゆく。誰もがそうだと思う。『B-BOYイズム』のラインを借りていえば「イビツにひずむ俺イズムのイビツこそ自らと気付く」。遅かれ早かれ。

自分がどのように壊れているのか。
その把握に努めたい。まずは。
換言すれば、どのようにフリーキーか。
どのようなブレイクビーツと戯れるか。
 
医学書院の「ケアをひらく」というシリーズ書籍からは、人間の壊れ方の多くを仔細に学べる。ひいては自分の壊れ方について。あるいは、生きることについて。「脳コワさん」も、このシリーズの一冊。医学書というより、哲学書としてわたしは受容しているように思う。シリーズ全体にILLなバイブスが半端なく、ヤバスギルスキルだらけでヤバい。ヒップホップとしてもぜんぜん受容できる。わたしだけかもしらんが……。ハードコアでありかつポップな、すばらしいシリーズです。そしてテクニカル。Check The Techniqueって感じ。






「もっと地獄みたいなとこかと思った」。祖母は施設についてそう話した。そんなことはもちろんない。地獄みたいな介護施設なんてそうそうないよ(と思う)。職員さんはやさしそうに仕事をこなしてくださる。とても感謝している。

入居1週間後に面会をした。COVID-19の影響で、ごく限られた時間。祖母は、「あたしの恋人」と若い男性の職員さんを紹介してくれた。家では孫のわたしを「恋人」としていた。うまく乗り換えたようだ。恋多き老婆。いいんじゃないかな。夫はとっくに他界したし。しなやかで薄情な感性。うつろうことをよしとする。それがいい。

そんなこんなで、6月。
もう2日。ついたちはどこいった?ははは。
ぼちぼちやろう。こっちはこっちで。




コメント

anna さんのコメント…
私の高校の先生は厳しかったです。「幼稚園からやりなおせ!」って言われて「それもいいっすね」って返したら、きっと泣くまで怒られたと思います。
お祖母さん、施設で馴染めてよかったですね。半年間の生活介護、お疲れ様でした。
nagata_tetsurou さんの投稿…
わたしも高校時代のリアルタイムに口答えしたら、火に油だったと思います。でもオッサンとなったいまならコワくありません。ただの反発ではなく、いまに至るまで揉んで揉まれて考えたすえの「それもいいっすね」です。時間の後ろ盾があるし、まじめに本気で「それもいい」と思っているから。軽口ではない。


祖母はまだ慣れないことも多そうですが、ひとまず安心しています。べつの環境に馴染むにはそれなりに時間がかかりますね。介護のことはふだん人に話さないため、ねぎらいはannaさんからのみですよ。ははは。ありがとうございます。ブログにも(たぶん)書いたことないですね。この記事が最初で最後になります。