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日記734





横尾 斜めになっていても自信を持って描くから人には真っすぐに見えてしまうんですよ。でも、真っすぐに描けてしまう不幸というのもあるんですよ。真っすぐ描こうと思うんだけれども、グニャグニャとなったり、ヒューッとこっちに行っちゃうとか、そうなって初めて新しい境地に入れると思う。そう思えば老齢の楽しみが待ち遠しくなる。だからできるだけ長い老年が必要ですね。

磯崎 手塚治虫が晩年、完全な円が描けなくなったみたいなことを言っていましたけど、楕円になったら、楕円をもとに描けばいい。楕円の鉄腕アトムを描けばよかったんですね。そこを描かなきゃいけないんですね。
『金太郎飴 磯崎憲一郎 エッセイ・対談・評論・インタビュー 2007-2019』p.458




老齢でなくとも、人にはどうしても「グニャグニャとなったり、ヒューッとこっちに行っちゃう」ときがあるのだと思う。老年期にそれが大きく顕在化するだけで、若い時分からそうした瞬間は日常に胚胎している。つねに真っすぐではいられない。すこしずつ逸れる。そんなつもりはなくても。

逸脱を「新しい境地」として迎え入れる。「そう思えば老齢の楽しみが待ち遠しくなる」と横尾忠則は言う。老いた人と接すると、決まって「老い」への戸惑いを聞く。こどもの頃は「老人」に泰然自若なイメージを重ねていたけれど、ぜんぜんちがった。

「老い」はおそらく、誰にとっても思いもよらない経験としてあらわれる。初めてのもの。「オレは老人初心者だ」と晩年の立川談志はよく話していたらしい。言い得て妙だと思う。さらにいってしまえば、ほんとうは生きることそのものが誰にも初めてなのだ。老年期は、それを嫌というほど思い出す時間ともいえる。あまりにも鮮明に、具体的に、痛みを伴い。「初めて」の時を、自分は生きていたのだと。

その意味で老年期に人は、こどもに戻る。というより、こどもを思い出す。人生を通してずっと傍らにいたにもかかわらず、忘れていた、なにも知らないこどもが晩年にひょっこりと姿を現すのだろう。もうどこにもいないと思っていた、とんでもなく無知な自分と老いの只中で再会し、多くの人は戸惑ってしまう。



大学生だったころ、
社会科教授法(たしかそんな名前)とかいう講座を受講しました。
岩浅農也という先生でした。
いわさ・あつや、
と読みます。
その先生の話で印象に残っているのは、
授業準備はどんなにしてもいいけれど、
教室に入る時には、その教案を捨ててかかりなさい云々。
すっかり準備したものを捨てる覚悟、
そのことがあってこそ、
目の前の生徒たちに言葉がとどき、
対話が豊かになる。

捨てる覚悟 | 港町横濱よもやま日記



「捨てる覚悟」がいつも対話の基本にあるといい。ちゃんと捨てて、ちゃんと戸惑いたい。むずかしいことだけど。捨てるのはまず立場だ。「準備」とは、立場を固める行為だと思う。逆説的ながら教師の立場は、生徒の前ではさらりと捨てる構えでいたほうがよい。むかし塾の講師をしていたので、これは実感をもっていえる。

立場に固執すると得てして高圧的になってしまう。気が遠くなるほど広大なこの世界に対し、自分もまた無知な生徒であることを臆せず披瀝できる教師がわたしの理想だった。誰とでも、ともに学ぶ姿勢を忘れずにいること。相手が幼稚園児であろうが、認知症のお年寄りであろうが関係ない。ただ、準備は絶え間なくする。教える立場からおりても、この気持ちは変わらない。






 ODにおいて治療スタッフは、アイディアは出すがプランは立てない。治療においては、たとえマイナスの変化であっても、想定外の出来事こそがしばしば転機となるからである。つまり治療のプロセスにおいては、「不確実性」こそが必須の要素なのである。

斎藤環『オープンダイアローグがひらく精神医療』(日本評論社)p.226



「OD」とは、オープンダイアローグの略。さいきん、これに関する本をたてつづけに読んでいる。精神科医の斎藤環氏が熱心に喧伝している、対話を軸とした精神疾患の治療方法。引用したのは、「アイディアは出すがプランは立てない」と「捨てる覚悟」がリンクするように思えたから。計画(準備)を押し付けるのではなく、その場で柔軟に対応する態度が似ている。

ODについて、べつの本にはこんな説明もあった。



クラシックでは譜面を弾き損なうミスタッチが問題となります。しかし、ある演奏家の言葉によれば、ジャズにはミスタッチが存在しないということです。彼の説明はこうでした。うっかりコードにそぐわない音を弾いてしまったとする。なんの問題もない。それがまた、新たな即興の始まりになるのだから。カッコいいですね。
 オープンダイアローグもそれによく似ています。そう、間違った発言など存在しないのです。それはつねに、ポリフォニックな言語空間を豊かにしてくれる資源なのですから。
斎藤環 著+訳『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)p.74



僭越ながら、ODの考え方と自分の常日頃の考え方が似ているように思えてしかたがない。「間違った発言など存在しない」。まさにそうした態度が理想的だとわたしも考えてきた。人のことばを奪うふるまいがなによりの悪だと、つねづね感じながら生きてきた。

この殊勝な理想を自分が体現できているかは心もとないが、過去にそう考えた痕跡はたしかにある。その思考の痕跡がODの考え方ときれいに符合する。びっくりするほど。だからいま、これに強い関心がある。

ODは対話を通したひとつの「治療法」として打ち出されている。しかし個人的にはもっと広く、他者とともに生きるための「物腰」なのだと解釈したい。あくまでわたし個人の考えとして。きっとそれは、ことばを使う生き物としてのありうべき物腰。

わたしたちは、来る日も来る日もことばを交わす。人の発言はみんな多少は病的であり、多少は治療的なのだと思う。つまり全員が患者でありかつ、全員がセラピストにもなりうる。そうした前提でわたしはいまこのときも、ことばを使っている。

もしか、どこかの誰かにとって自分のことばが治療的に作用していれば、それ以上の僥倖はない。しかし治療はいっぽうで、新たな病気のいとぐちにもなりうる。なぜならわたしもまた立派な患者なのだから。「きみは、この地球が宇宙の精神病院だと思わないか?」という、カート・ヴォネガットの問いかけを思い出す。せめて、ほどほどの患者でいられるといい。






何なんですかね、才能って。でもそれって自分ですよね。対自分の、自分が面白いと思ったら面白いっていうことを基準にしか考えられないんで、あの人がいいって言ってるからいいんだろうというのは、僕はあんまりないですね。そういうのをちゃんと無視できたときに「あ、よかった」みたいな。「俺とあの人は全然意見が違う、みんながすごいって言ったあの人と俺は意見が違うぞ、よかった」みたいな(笑)。

文学ムック『ことばと』Vol.1(書肆侃侃房)p.48



又吉直樹氏の発言より。「グニャグニャとなったり、ヒューッとこっちに行っちゃう」ことを肯定するためには、真っすぐを「ちゃんと無視」しなければならない。あるいはきれいな円をちゃんと無視して、楕円の鉄腕アトムを肯定する。コードにそぐわないミスタッチから新たな即興を始めるように。いかなる準備もいさぎよく捨て……。

ともかくこう、なんかいろいろおかしいけど、それちょーおもしろいじゃん最高!って、わたしはずっと言い続けたいんだ。他人にも、自分にも。じゃあさいごに、いい感じのグニャグニャした文章を引用して適当に終わろう。思いっきりちゃんと無視している。これがまぎれもない才能の姿だと思う。

武者小路実篤の「ますます賢く」。



 僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。
 人間もいくらか老人になったらしい、人間としては老人になりすぎたらしい。いくらか賢くなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当のことはわからない。
 しかし人間はいつ一番利口になるか、わからないが、少しは賢くなった気でもあるようだが、事実と一緒に利口になったと同時に少し頭もにぶくなったかも知れない。まだ少しは頭も利口になったかも知れない。然し少しは進歩したつもりかも知れない。
 ともかく僕達は少し利口になるつもりだが、もう少し利口になりたいとも思っている。
 皆が少しずつ進歩したいと思っている。人間は段々利口になり、進歩したいと思う。皆少しずつ、いい人間になりたい。
 いつまでも進歩したいと思っているが、あてにはならないが、進歩したいと思っている。
 僕達は益々利口になり、いろいろの点でこの上なく利口になり役にたつ人間になりたいと思っている。
 人間は益々利口になり、今後はあらゆる意味でますます賢くなり、生き方についても、万事賢くなりたいと思っている。
 ますます利口になり、万事賢くなりたく思っている。我々はますます利巧になりたく思っている。
 益々かしこく。









コメント

anna さんのコメント…
「立場に固執すると得てして高圧的になってしまう。」
仕事先の定年になって嘱託で働いているおじいちゃんがいるんですが、最近、口うるさくガミガミ怒鳴り散らしてばかりいるんで、引退したのになんでなんだろうと思ってました。そーいうことかあ。

ジャズの演奏は即興ですから、音のはみだしで楽想が広がることは確かに面白いと思います。
でも即興にも様式というか許容できる範囲はあって、その中での楽想の展開というかお互いの音の交わりが約束事だと思うんですが。なんかうまく言えません。
nagata_tetsurou さんの投稿…
自分の立場がおびやかされるのは、やっぱりこわいんですね。年長者の、とくに男性の高圧的な態度は、地位が奪われる恐怖と深く関係していると思います。引き際ってむずかしい。まったくの私見ですが……。

ジャズの比喩について、似たような考えは浮かびました。ひとつ前の記事に、「みんなで勝手なことやるってのがいちっばん楽しいね」という山下洋輔のことばを引用しましたが、この場合の「みんな」ってのは選びぬかれた精鋭のプレイヤーたちを指しているんです。誰でもいいわけではないのね。

一定の「約束事」をその場で瞬間的に共有できないと、かえって音の停滞を招いてしまう。そんな側面はたしかにある。場の共有がたぶん不可欠で、つまり「ジャズの現場を担う」というプレイヤーたる自己意識の共有ですね。

オープンダイアローグでも「現場性」が重要視されています。対話にあらかじめ約束事があるのではなく、その場その場の語りによってその場における約束事が次々と生成されていくようなイメージかな……。社会性の回復とは、約束事の回復ともいえるのかもしれません。それは、ことばを担うプレイヤーたる自己意識の回復でもある。

いや、まあ、ジャズに関してもODに関しても素人考えなので、話半分に読んでください。このブログは私見100%で構成されています。なんの専門性もない。勘だけが頼りです。笑
anna さんのコメント…
そーです。みんなで勝手に”できる”ことが素敵なんだと思うんです。
でも、すごい。私が言いたかったことを100%文章にできるなんて。
ありがとうございます。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「勝手なこと」と「約束事」は矛盾するようだけど、じつは補い合う関係なのでしょうね。そんな気がします。ぜんぶ自分本位ではどうしようもない。人間の自由はきっと利他性のもとにあるんです。はみだすだけでなく、相手の音を聴かなければ自分の音もない。

「言葉が意味を持つためには、応答が必要」という前提においてODの対話は行われます。「意味」は個人の頭のなかにはなく、やりとりのなかで形成されるんですね。対話とは、意味のあずけあいなのだと思う。

コメントの応答によってこの謎ブログの意味をあずかってくれるannaさんに、こちらこそ感謝です。わたしは意味をあずけすぎる傾向があります。そんないらんのに、と思われるパターンも多々ある。しまうとこがないと、こまりますものね。笑