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日記735




7月27(月)


立ち寄ったラーメン屋で、aikoの曲が流れていた。「きみにいいことがあるように」と。それをとにかく連呼する。あまりの連呼に反発心が芽生え、内心で「わたしにいいことがあるように」と対抗を試みるもむなしい。ぜんぜんかなわない。というより、疑わしくなる。「ワシにいいことなんかあるかいボケェ!」と瞬発的にツッコミを入れてしまう。自分のことは良くも悪くも、わかったつもりでいるせいだろう。人生は苦行である。と、わかったつもりでいる。

でも、「きみ」のことならわからない。そういうことか。ラーメンをすすりながら勝手に納得していた。きみにはいいことがあるのかもしれない。素直にわからないから、素直にそう思える。もちろん悪いこともありうるけれど、いいことがあれば、なんたって「いいこと」なのだから、そっちのほうが気分がいい。祈るなら、「きみにいいことがあるように」。無責任で素直な、わからなさの表明として。きっとそうなる。自分の「いいこと」は素直に祈れない。いやなにより、aikoの歌に抗ってはいけなかった。

などと、めんどくさいことをぐるぐる考えながら追加のミニチャーハンを食べていた。そうそう。わかったつもりでいる自分のことも、他人からすればわからない。この非対称性が、ことばを投げ込む入り口になる。人生って、あんがい苦行だけではないかもよ? 誰かは言うだろう。自分の握りしめていた「わかったつもり」が揺さぶられる。再考を促され、わからなくなってしまう。それはすこしこわい。でも、会話のたのしみもそこにある。他者は自分をわからないものへと育ててくれる。

すべてがわかりきっていれば、祈りの余白は生まれない。会話の余地もない。「わからない」という不確実な空白があることによって、ことばが賦活する。だから「わかんないなー」と感じたら、それはたいせつに記録したほうがいい。どんなにちいさな疑問も殺さず。ことばのために。

わたしには、この世のほとんどすべてがわからない。率直に言ってアホである。自分の過去の記憶でさえ、あやふやな夢のようで不定形にそこらじゅうをたゆたい、いまも絶えずこぼれている。きっと、こぼれてしまうから人と話ができる。あるいは祈ることも。きみにいいことがあるように。aikoが言ってた。






「わたしにいいことがあるように」と、素直に言えないのはなぜだろう。もちろん、いいことはあってほしい。ワシに幸あれ!と願ってやまない。それはやまやま。しかし、半笑いだ。「いいこと」には、本気になっちゃいけないような。なんとなく忌避感がある。呪わしい。「きみに~」もちょっと呪わしいか。

「いいこと」は目的化すると、うしなわれてしまうのではないか。あらかじめ措定した瞬間、逃げてゆく。目指すと消える。事前に観測しえない。でもたまにヒョコッとあらわれる。もしくは、あとからジワジワ湧き上がる。そんな性質の、ふとした概念なのではなかろうか。単純な「ある/ない」ではなく、ふと死角を突いてくる。ありそうで、ない。なさそうで、ある。そんな。

たとえば、ほら、aikoの歌詞。「きみにいいことがあるように/今日は赤いストローさしてあげる」。なぜ赤いストローなのか。aiko家に伝わるおまじない? ただの思いつき? わからない。思わぬ飛躍を彼女は歌う。何をしてくれる。やめてほしい。そんなことされたら、好きになってしまうではないか。aikoはマジで死角を突いてくるからヤバい。いきなり赤いストローをさしてくるような奴はどう考えてもヤバいだろう。意味がわからないよ。理由はといえば「きみにいいことがあるように」。どういう因果関係? なにそれもうやめて! ああ呪わしい! キエーッ!!

いやそれはともかく。
つまり、そう「いいこと」は目的化できない。
そういう話だった。


ODのプロセスとは、対話を続けることを目的として、多様な声に耳を傾け続けることである。言い換えるなら、ODのゴールは「変化」や「改善」、「治癒」ではない。(…)それらはすべて、一種の副産物である。副産物のほうに執着すれば、対話は停滞するほかはない。

斎藤環『オープンダイアローグがひらく精神医療』(日本評論社)p.226


対話の副産物として「治癒」がある。

これはなにか、ものすごく示唆的だと直感する。人が感覚するあらゆる「いいこと」は、副産物としてのみありうるのではないか。根拠はないけれど、実感としてそう思う。むかし山形浩生氏がジョージ・エインズリーを引きながら述べていた、こんな話も思い出した。


(…)いきなり何でも自分のほしいものを直接ドンと手に入れちゃえば、かえって不満に思う。むしろそれを手に入れるプロセスが重要なのかもしれない。それをあらわすものの一つは、役所の名前だ。国民の幸福が重要なはずなのに「幸福省」というのはない。真理探究が重要だといいつつ「真理省」はない。平和を望むといいつつ「平和省」はない。商売繁盛を狙いつつ、「繁盛省」はない。みんな、そうしたものはあくまで結果であって、それ自体を直接操作目的にしてはいけないというのを知っているんじゃないか、という。

これはあくまで一説だけれど、ぼくは重要な論点だと思う。人が幸福を本当に得るためには、幸福を直接考えちゃいけないのでは? アラニス・モリセットだか禅の悟りだかみたいな話だけれど。でも幸福研究は往々にして、それを無視してしまうように思うのだ。

幸福の遺伝子、または喜びの伝達物質 - 山形浩生の「経済のトリセツ」


「幸福省」という字面に感じる寒気と、「いいこと」を目的化するおこないへの抵抗感は似ている。「幸福は定義だ」と長田弘は詩に書いていた。答えや状態ではなく。感情や価値でもなく。「ここによく在ること」。それだけだと。すなわち「幸福はWell-beingである」と詩人は言う。Happinessではなく。幸福について考えだすと結局、アラニス・モリセットだか禅の悟りだかみたいな話は避けられないのかもしれない。

わたしは長田弘の「定義」に、舞台のイメージを重ねて読む。坂口恭平は現実を「他者と意思疎通するための舞台」だとみなした。これを念頭に置きながら。そう、「定義」とは意思疎通をするための舞台。人は名付けられ、言語世界への参入を果たした瞬間からこの舞台上(=定義上)を生きている。否が応でも。

舞台には人がたくさんいる。いつでも、どこでも他者と邂逅する可能性がある。他者から逃げることはできない。そこに地獄を見る人もいるだろう。サルトルは「地獄とは他人である」と戯曲に書いた。その題はまんま、『出口なし』。わたしの20代は、いま思えばこのことばを軸に展開していた。30代のこれからはどうか。わからない。どんどんアホになっている。これはきっと、いいことだ。

わたしたちはいつも世界を創造している。あーでもないこーでもないと、試行錯誤を繰り返しながら。創造はひとりで何かをつくりだすことではない。他者を介した(≒ことばを介した)、「受け容れ方」なのだと思う。それが「定義」になる。現実の舞台で生起する疎通を、いかにして受容するか。地獄として受け容れるのなら、地獄にもなるのだろう。


 幸せな運命とは、どんな出来事にせよ、その喜びや悲しみに関わりなく、出来事を通して人が深く考えることができるようになり、魂の活動領域を拡大し、やすらぎを得て人生をおおらかに受け容れられるようになることなのだ。だから運命は、実際は愛を奪ったり、勝利へ導いたり、あるいは人を王位につけたりする偶然性の中にではなく、むしろ夜、星が無心にまたたく空や、身近な人や恋人を、あるいは心に湧いてくる数知れぬ想念を、われわれなりにどのように受け容れるか、その受け容れ方の中にあるといえるだろう。

M・メーテルリンク『限りなき幸福へ』(山崎剛 訳、平河出版社)p.173


出来事の受け容れ方は無数にある。喜びだけではなく、悲しみだけでもない。かんたんにはいかない。どうにもやるせない現実を、どうにかして受け容れようともがくなかで、すこしずつ人の創造性は変化していく。その受容過程において、なけなしの自由が駆動する。ここに生じる自由が種々の副産物をもたらす素になる。のかも。

余談ながらメーテルリンクの「運命は受け容れ方のなかにある(要約)」と、堀川正美の有名なフレーズ「時代は感受性に運命をもたらす」が似ていると思った。自分の置かれた時代状況をどう受け容れるのか。あるいは、その時代とともにある他者をどう受け容れるのか。そこに感受性の骨格をかたちづくる自由の契機がある。わたしの考えでは、すべては受容から始まる。反発するにしても、それはそういう受け容れ方をしているのだと思う。










「オープンダイアローグ」という精神疾患の治療法を知ってからずっと、このセリフが気になっている。何かをかくすためにお喋りをする。これはおそらく、ふつうのことだ。かくすことに失敗したとき、病理があらわれる。決定的なことは「言わないで すます」に越したことはない。患者は過剰にひらかれている。オープンダイアローグはその「過剰なひらかれ」に焦点を当てた治療なのだろう(素人の臆見)。

『リバーズ・エッジ』のこの箇所は芸術的なモノローグだ。たしか宇川直宏さんがアートとデザインを対比して「アーティストは患者で、デザイナーは医師」とおっしゃっていた。ここでの文脈に寄せると「アーティストは暴露し、デザイナーは隠蔽する」とも言えそう。むろんどちらが良い悪いではない。なるほど、芸術家は言い当てる。ピタリと。その通り、わたしたちは何かをかくすために、えんえんお喋りをしつづける生き物なのだ。

コミュニケーションは死の忘却をもたらすと、ヴィレム・フルッサーがどっかに書いているらしい(友人から聞いた)。それは、病の忘却とも言えるだろう。わたしたちは会話による恒常的な情報生成を日々必要とする。病にうっかり足をとられないように。うだうだ言う。そうやって現実という舞台装置をメンテナンスする。

他方、モノロジカルな(=病的な)問いに拘泥する時間も人生にはかならず訪れる。生きるうえで、病や死を完全に忘却することはできない。遅かれ早かれ、いずれ暴露されてしまう。芸術の論理も必要不可欠で、そこにきっと人間の人間たるゆえんがある。

色川武大はエッセイ「ジャズとの個人的な関係」に、複数人の対話的な演奏よりも「優れたプレイヤーのモノローグをききたい」と書いていた。わたしもどちらかといえばモノローグに惹かれるクチで、足りないのはダイアローグなんだ。自分自身、モノロジカルな問いに拘泥しつづけている。お喋りは苦手です。ははは。






頭から読み直すと、いつにも増して引用だらけだ。とりとめがない。わたしにはこういう書き方しかできない。読んだから書いた。ずっと読んだ話をしている。聴くこともふくめて、広い意味でぜんぶ「読んだ」。まとめるなら「読む」とはつまり、現実という舞台の重層性にもがきつづける、終わらない創造の受容過程なのである。ジャーン。

おしまい。







コメント

anna さんのコメント…
私には毎日いっぱいいいことが起こります。
奮発して買ったいつもよりちょっと高い紅茶が思いのほか美味しかったこととか。連絡しようかなと思っていた友達から先にお昼に誘われたりしたこととか。雨だけど出かけないといけないなあと思って外に出たらその時だけ雨が上がってくれたこととか、近所の川べりを散歩してたら雉が突然目の前を横切ったこととか。
人生って、あんがい苦行だけではないかもよー?
nagata_tetsurou さんの投稿…
挙げてくださった「いいこと」は、どれも「思いのほか」な出来事ですね。良い意味で「期待はずれ」ともいえる。そうそう、「あんがい」ね。共通項は「外」。内心にはない。いいことは、「心の外」にて巻き起こる。心外なんですね。内心にばかり囚われていると、目の前を横切る雉の鮮やかな色も見逃してしまいます。

「苦行」と書いたとき、仏教の「一切皆苦」ということばも脳裏を過ぎりました。仏教における「苦」は「思い通りにならない」とも解釈されるそうです(パッと検索した程度の情報)。つまり、一切は「思いのほか」であると。それでいえば「苦行」とはほんらい「わかったつもり」の頭をほどき、世界をわからないものに育てるおこないなのでしょう。やばい、また禅の悟りだかみたいな話に突入しそうです。

うーん。わたしたちは、思いもよらない世界に生きていますね。いつもいつも。シンプルに、それだけのお話なのだと思う。「思う」と書いたけど、思いもよらないんです。なにを思っても。どう思っても。思っても、思っても。思いは、よらない……。そうだ、「思い」に囚われてはいけません。思いの外へ。世界は広い。修行が足りないな。ちょっと滝に打たれてきます。