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日記731




上の写真。ちからずくな落描きではなく、木の模様に従ってそれを猫にしている。融和的というか。描いた人は、もともとある空欄に猫を見出した。めざとい。おみごと。自然的な循環のすみっこにちょんと乗っける、そんな落書き。空欄をことほぐように。

おそらくすべてはもう、かたちになっているのだろう。すでにある。なにもかも。できることはそのうえで、どこになにを見留めるか。それしかないのではないか。これは個人的な運命論でもある。すでにある世界を何度も生きなおすような。

「やりなおしている」と前に書いた。いつもだいたいおなじ話をしている……。いま気づいたが、これは写真の話でもある。すでにある世界の一部を光学的にかたどる技術。見出された猫のかたちを、さらに見つけて、写真のかたちにしなおした。いわば発見の連鎖。

世界はすでにある。めっちゃある。どこまでも、びっくりするほどある。ありすぎてときにあたまがぐらぐらする。あたりまえといえばあたりまえの、この大前提を忘れずにおこう。あるものをあるとすなおに見留めるために。

人もきっと、この木の表皮みたいにさまざまなかたちをまとい目の前に現れる。写真を見ながら、そんな連想が働いた。人間にもアメーバ状の抽象的な線があらかじめ入っている。ひとりひとりちがう。それぞれの人のもつフレームのかたちに従って補助線を引くようなコミュニケーションのあり方が理想的だと思う。目の前の空欄を、ことほぐような。

チミのここは猫っぽいね、とか。このへんハートっぽくてかわいい、とか。なんかそんな。やばい、ゆるふわな例しか思いつかない。

つまり相手がすでに身にまとっている要素をいかに意味づけ、かたどるのか。という観点から対人関係を考えている。一方的に書き入れることはできない。引けるのは補助線のみ。すぐに消えたってかまわない。

もちろん自分自身との関係においても、すでにいるコイツをどうするか、融和的な視点で捉えている。日々、再利用。いつもおなじような休むに似た考えをすこしずつ変化させながら、わたしの空欄をわたしはここでことほいでいる。そういうことにしておく。

「太陽の下、新しいものは何ひとつない」という、コヘレトの言葉がむかしから好きだった。こんな感覚に至ったのは、そのせいだろうか……。コヘレトの私的なパラフレーズなのかもしれない。ここでもやはり、循環を思う。再利用に次ぐ再利用、発見に次ぐ発見。ひたすらにぐるぐるまわる。そんな世界観。







疲労困憊した日の夜は、入眠時に幻聴が出る。幻聴は「出る」のか。うーん。湧き立つような感覚だと思う。幻聴が湧く。覚醒時と睡眠時の接地するみぎわに。それでもすぐに眠れるため、問題ない。内容はシンプルで、とにかく名前を呼ばれる。10代のころからずっとある症状。

それと関係するかわからないけれど、人に名前を呼ばれるのがすこしこわい。とはいえ、社会生活に支障をきたすほどではない。すこし。しかしやはり、人一倍こわく感じている。それは確かだと思う。わたしにとって、名前は首輪だ。

言語は首輪だ、と言い換えてもいい。ことばをこわがっている。畏敬にも似たおそれ。この首輪がわたしと現実とをつないでくれる。入眠時に名前を呼ばれるのは、夢に閉じ込められないための抵抗なのかもしれない。リードを引っ張るように、「そっちへ行くな」と。言語が言う。

幻聴というのは、やたら現実感がある。聴覚にはたぶん覚醒的な性質がある。いっぽうで視覚はすべて夢のようだと感じる。寝ても覚めても。写真がそのいい例証だと思う。なにを撮っても夢の断片みたいにうつる。








7月になった。

先月は1回かな、と思いきや2回。ここを更新していた。今月は3回くらい更新したい。いきなりわけもなく50回やってもいい。自由だ。どう生きてもいい。と、よく思って、よく忘れる。これは「よく食べて、よく寝る」と似たサイクル。よく育つね。






コメント

anna さんのコメント…
猫じゃ猫じゃあ。猫好きの血が騒ぎます。
幻聴といえば、前も書いたと思いますが、鈴木清順のツィゴイネルワイゼンっていう映画で幻聴がなんども効果的というか気持ち悪い使い方されてたのを思い出しました。映画のなかでの「ダメだよ」っていう幻聴が暫く耳に残っていやだったなあ。
その話の元ネタになった「サラサーテの盤」っていうレコードもあったんだよなーと思ってyoutubeで探したら出てきました。聞いてみたら、やっぱし「気色悪っ!」ってなりました。ぜひ一度聞いていただいて「気色悪っ!」ってなってください。
nagata_tetsurou さんの投稿…
猫、お好きだったんですね。
実物の猫もさいきんよく撮っています。じつは。

幻聴って耳に残るんですよね。たとえフィクションでも。そうそう……。
映画『ツィゴイネルワイゼン』の元ネタは内田百閒の小説ですね。それが『サラサーテの盤』。その内田百閒はヴァイオリニストのパブロ・デ・サラサーテによる「Zigeunerweisen(ツィゴイネルワイゼン)」の盤から着想を得て小説を書いたそうです。ご存知かもしれませんが、いちおう整理。

サラサーテの「Zigeunerweisen」は、途中で声が入るんですよね。ほんの一瞬。サラサーテ自身の声が乗る。ちょっとゾクッとする。レコードノイズ混じりのヨレた音も相俟って不気味なの。まさしく幻聴のような。前にいちど聴きました。

おそらくは録音中のミスで乗った声。しかしそれが日本で小説の着想となり、のちに映画化までされって考えるとすごいですね。ミスっとくものです。

人の声にはなにかこう、ひきこむちからがありますね。意味不明な声でも、なんかひきこまれちゃう。特有の強い磁場がある。わたしたちはいつも「なにか言ってほしい」とこいねがっているのかもしれません。この世のすべてに。
anna さんのコメント…
あー、サラサーテの盤の中の声、知ってたんだ。乏しい知識を駆使して知ったかぶりしたのに残念です。
じゃあ、これはどーだあ。Raspberry Beretって曲のMVなんですが、何故か歌いだす前にゲホゲホせき込むprince(princeのMVでyoutubeでみたやつです)。 初めて見たときOfficialのMVなのになんで?って思いました。
幻聴の話しとはなんか趣旨が変わっちゃいますけど、わたしこんなん知ってます勝負です。
nagata_tetsurou さんの投稿…
Princeのそれは見たことありませんでした。
多幸感あふれるMVですね。すごい好き。

咳というとOasisの2ndアルバム『Morning Glory』を思い出します。「Roll With It」と「Wonderwall」のあいだに「アハン!」みたいな咳が入っている。これはアルバムでしか聞けません。有名だけど、「こんなん知ってます」返しです。笑

PUNPEEの「Lovely Man」という曲は冒頭でトイレの水を流してゴヘゴヘ咳してます。曲全体がそれもふくめて洒落た構成で、ニクイなーと思う。さいきん元AKB48の秋元才加さんと結婚したラッパーです。ラッパーの音源には咳払いありがちかも。

ついでに、これは好事家以外にはおすすめできませんが、ノイズバンド非常階段の1stアルバム『蔵六の奇病』の初っ端「マントヒヒ」。ライブの音源で、1分以上ただ「おえー」つってる。そして拍手。でおわり(笑)。いま検索したら、アルバムごとYouTubeにありました。

咳ひとつでいろいろ広がりますね。
調べればもっとありそうです。
anna さんのコメント…
参りましたでごじゃる。
nagata_tetsurou さんの投稿…
(๑˃̵ᴗ˂̵)