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日記736




生まれてから死ぬまで、人の意識は絶えずぐるぐるしているのだと思う。幼年期や老年期には、この「ぐるぐる」が純粋にあらわれる。おんなじことを、何回も。何回も。何回も。短い周期のぐるぐるで、意識の始原的なかたちを見せてくれている(と思う)。「健常」とされる成人はぐるぐるの円周がおおきく、周期が長い。でもバランスを崩すと反芻思考のような、ちいさなぐるぐるにも容易にハマってしまう。その契機はそこらじゅうにある。

ちいさなぐるぐるの渦は強力だ。自他の境なく、ぐいぐい巻き込んでゆく。乳幼児は一気に家族の中心的存在となり、老人もそれとなく中心に据えられる。病者もまた。しかし、あくまでちいさい。そばまでこないと、その求心性はわからない。「ちいさなぐるぐる」は強力ながら、マクロに見れば周縁化された少数派の渦だ。ほどほどの渦で社会の大勢はまわっている。

自分としては、できることならいつもふわーっと広大なぐるぐるを身にまとっていたい。おおきく、悠々と。雪解けを泳ぐ、くじらみたいな。クラッカーとチーズとワインでフル回転の。舞い上がる水しぶきに涙を見せないようにして。

とはいえ、そうもいかない。人は巻き込むし、巻き込まれる。ことばを使い、社会的な動物として生活を営む以上、お互いのぐるぐるを作用させあうほかない。このブログもひとりの人間による「ぐるぐる」のかたちであり、継続的に読んでくださる方は、めっちゃ巻き込まれている。巻き込み事故である。

書くことによって人は、他者にも反復可能な自己をつくる。自己にも反復可能な他者でもいい。いずれにせよ、とりあえず反復可能な言語空間を刻んでいる。何回も。何回も。それがやがて居場所となる。居場所とは、ぐるぐるを可能にする地平のこと。

でも、ほんとうは反復なんてありえない。世界は誰にも予測不可能な一回としてある。常在戦場だ。そんな世界にあって人間は集団で再現性の巣にこもり、あらゆる起伏を平らに均し、あたかも一日一日が反復可能であるかのような文明の時間を立ち上げた。

「再現性」とは、魔法のような奇跡ではないか。反復は奇跡だ。一般的には、反復しえない出来事を「奇跡」と呼ぶのだろう。価値観が転倒している。日常の反復をつなぐのは、ひとりひとりの「時間を超えたい」という願いなのだと思う。四六時中みんなでぐるぐる。奇跡で時間を塗り込めている。一回ではなく。いつまでも、ここで。

再現性の巣にこもる。個人単位では、カラスがハンガーを集めて巣をつくるようなもので、わたしもハンガーを集めている。ハンガー大好き。拾得物を適当にぐるぐる絡み合わせ、適当な場所をつくり、適当な話を繰り返す。

反復は快楽系と密接に関係しているのだろう。そう直感する。セックスが端的でわかりやすい。行為の反復性と同時に、根底には記憶の反復もあると思う。反復は記憶のかたちとしても、忘却のかたちとしてもありうる。ウーン。なんかそんな問題系に関心がある。陳腐な洞察かもしれない。おそらく、すでに数多くの議論がなされているはず。知らないだけで。

日々の反復は人間の基本的な活力源を担っている。
環境の変化で弱りがちなさいきん。
なにより暑すぎる。






身体の動きはほとんど無意識に処理されており、無意識でうまく処理できない場合に意識まで達する。ストレッチで身体をやわらかくするのは、無意識の回復ともいえそう。硬直した関節は意識しないと動かせない。スッとラクに動けば、意識せずに済む。無意識はやわらかい。

意識は「痛み」なのかもしれない。というか、わたしの考えでは痛みそのものだ。「およそ一切の意識は病気なのである」とは、『地下室の手記』にあることば。ドストエフスキーの小説。10代のころ読んで、「そうだよね」と共感しきりだった。麻酔によって意識もろとも痛みを飛ばすやり方は示唆的に思う。

「病気」とまでいかずとも、つっかえるような、つまづくようなときにぐっと意識は前景化する。上記の「ぐるぐる」と絡めるなら、意識とは「痛みをめぐる運動である」と言えるのではないか。なにかしらの痛みをめぐって、ぐるぐるしている。快楽は痛みの一変種でもある。

……と、それは於くとして。4月からまいにち30分ほどのストレッチを欠かしていない。4ヶ月目。長年の懸案事項である猫背は、かなり矯正された(はず)。やっているうちに、発見も多くある。いずれはもう無意識の塊になりたい。ほとんど死に体の。赤ちゃんみたいな。「やわらかさ」の究極形態は、赤ちゃんなのかも。ストレッチは時間の巻き戻し?

舞踏家の最上和子さんが「カネのかからない娯楽としての身体」というお話をされていて、ほんとうにそうだなーとうなずく。身体をいじるのはおもしろい。無料でこんなにおもしろいものを、すでに手にしていたとは。

身体について、自分はなにもわかっていない。意識的に動かしたり触れたりしないと、なにがどこにあるのか存在すらつかめない。見失っている。さいきんまで、背骨が行方不明だった。いまも鮮明にわかるとはいえない。背骨初心者だ。

いったん意識のうえに乗せて、もういちど忘れる、みたいな運動性が重要かと思う。それこそが「ぐるぐる」。浮沈させる。それぞれのパーツがもつ痛みを知ることで、その存在を知る。表皮から骨まで。連絡する。出欠をとるように。そっからまた無くす。うまいこと無くす……。

そんなことを考えている。





コメント

anna さんのコメント…
どーもー。巻き込まれ中のannaです。といっても、面白く読ませてもらってますんで事故ってる感じではないですけどね。
基本、座り仕事の私は、いつも椅子に座ったままストレッチを人知れずこっそりやってます。
どーしてもお尻や太ももあたりの血流が悪くなってるような気がするんで、浅く座って背筋を伸ばして、机の下が見えないことをいいことに片方の足首を反対側の膝の上に乗せるとすっきりします。ぜひ一度、お試しを。
nagata_tetsurou さんの投稿…
山里亮太さんの声で再生されました。「どーもー」って。このブログを面白く読めるのは、あきらかに事故っています(笑)。ひとつの才能とさえ言える。そんなannaさんの才能に、わたしも面白く巻き込まれているのです。みんながみんなを巻き込む世界。

長く座っていると太ももの裏と股関節がカチコチになりますね。20代のころはおなじく座り仕事をしていたので、わかります。30代の現在は立ち仕事で、40代になったら浮く予定です。50代からは寝仕事かな。60代は沈み仕事。で、だんだん埋まってく。そんなライフプラン。

たぶんおなじことを座ってなきゃいけないときにやっています。上体を前に傾けるとお尻が伸ばされて気持ちいいですね。「人知れずこっそり」なら、貧乏ゆすりもおすすめです。血流、だいじ。水分補給も血流のためには欠かせません。こまめにお水を飲むだけで、ストレスケアにもなります。水分は季節関係なく、たいへん重要ですね。