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日記738




どう足掻いてもかなしい。

と、Evernoteに記録していた。8/20。この日、かなしい出来事に遭遇したわけではない。「人間のかなしさ」みたいなことを漠然と思っていた、おぼろげな記憶。でも「どう足掻いてもかなしい」とだけ書かれたメモをあとから見つけると、なんだかおかしい。『幸せではないが、もういい』という本のタイトルを初めて目にしたとき、内容とは無関係に笑ってしまった、それと似ている。

どう足掻いてもかなしく、どう足掻いてもおかしいのだろう。感情は事もなく自己を裏切りひるがえる。忘れてしまう。忘却は恩寵であり、記憶の減免というか、基礎控除なのだと思う。「どう足掻いてもかなしい」そんな瞬間も数日後に忘却され(控除を受け)、ただの妙ちくりんなメモになる。あとから振り返ったときに湧くこの「へんな感じ」が思考するための余白なのかもしれない。控除のおかげですこし足掻く余地ができた。つまり、疑う余地ができた。疑いようもなく鮮明な記憶は、とても相手にしきれない。






すこしずつ忘れて、すこしずつ思い出す。それにより記憶が陰影を伴って彫琢される。明るすぎても暗すぎても視野はひらかれない。適切な部分化によって話はつうじる。部分化とは、見えやすいあかりを灯すこと。世界のすべての記憶へのアクセスはかなわない。わたしのすべての記憶へも、そう。つねに記憶は部分化される。

過ぎた時間の、ほんのわずかな部分が記憶として残る。記憶は「ありよう」ではなく「なくしよう」なのだと思う。どのようなかたちで目の前の現実をなくしてゆくか。写真は「なくし方の表現形」だと前に書いた。「なくし方」は広く、記憶の話ともいえそうか。

たとえば、いなくなった人を思うとき。目の前にいれば思い出す必要はない。あんまり居座られると、忘れたい気持ちさえ芽生えるだろう。人が能動的に記憶を訪ねるのは、「ない」に直面したそのときだ。あるいは本の感想を書くときも、いったんその本を閉じなければならない。必要に応じて参照するが、基本は閉じて書く。読み始めると書けなくなる。夢から醒めないと夢の内容は語れない。つまりはそういうことなのだと思う。

夢の名残を語る。すでにない時間を、いまいちどかたちづける。記憶をたぐることで人はふたたび夢に向かって目醒めなおす。「死者を立たすことにはげもう」と富士正晴は書いた。これをたびたび思い返す。けっして大袈裟な話ではない。淡々と、ことばで時を刻みつづけよう。単純に、おおづかみに、そんな意味だと理解している。






ほんとうは、なにも終わらないのだと思う。自然は終わらない。「終わり」は、きわめて人工的な概念だ。人間的ともいえる。文明的というか。箱庭的というか。完結性がないと不安になる。なんにでも期限がある。と思い込んで、汲々として、かつ安心している。期限によって社会は顕在化する。

わたしもいちおうこの社会の成員として教育を受け、きょうまで多くのことを終わらせてきた。そのつもり。終わったはず。もし、これまでのすべてがいまもなお進行中だとしたら、とてつもなく嫌だ。やばいやばい。考えたくもない。毎年9月に居残りして、ようやく夏休みの宿題を終わらせていた小学生のころを思い出す。それでも終えることはできたはずだ。曲がりなりにも。

しかし一方で、なにひとつやりきれていない感覚もある。完全にピッタリと過去を密封するようにはいかないのだろう。いつまでたっても試験で失敗する夢をみる。幼稚園の先生に怒られる夢までみる。もう怒らないでほしい。卒園したってば。三十路を迎えた、いいおじさんだよ先生。悪いおじさんである可能性も否めないけれど……。

すべての「終わり」は仮の不完全な蓋に過ぎず、すこしずつ時が漏れ出してしまうのかもしれない。そういえば、認知症の祖母は蓋ができなかった。文字通りの、タッパーやペットボトルの蓋。意識が縮減すると、まず行動の完結性が失われる。服をしまうとか、食べものを片付けるとか、そういうことがままならない。その延長線上に徘徊がある。家を出て、帰ってこれない。始点だけがあり、終点が消失してしまう。

終わる、閉じる、帰る、これらは開始した行動を受けて意識にのぼるものだと思う。いわば、回収点。意識は共有可能な時間の海に浮かぶブイみたいなもので、その機能がやられると夢幻の航線に浮かされるまま、ひとりいってしまう。収集がつかず、どこまでも。始点はおそらく無意識にちかい。そして無意識は「終わり」がわからない。夢のなかでいつまでも過去が反復されるように。いまもなお、すべての時間が無意識の裡に生きつづけている。

ひたすら始まる。心臓の拍動がわかりやすい。無意識の主たる働きは「いってしまう」ところにあるのではなかろうか。過去も現在も分け隔てなく、始まっている。ずっと。それが自然そのものの律動でもあり、ほんとうはなにも終わらない。そんな世界のなかで、ちいさな虚構の囲いとして人間は終わりの線を引く。「なくし方」をかたどる。意識に焼きつける。「終わり」はとても虚構的だ。いってしまう世界を区切り、時間をピン留めする。ささやかな思い切り。声にならない抵抗。
 























このままずっと歩きつづけて
きょうはもう もうきょうは
帰りたくないけど 夜がきてしまう






散歩がはかどるさいきん。









コメント

anna さんのコメント…
読んで、どっかで見た「物語は終わっても人生は続く。」って言葉を思い出しました。
でもなんの本で見たんだか覚えてなくて、ネットで検索したらいろんなパターンで同じようなのがたくさん出てきました。
「そうか。みんな感じていることだったんだ。」って納得しました。
nagata_tetsurou さんの投稿…
終わっても終わっても、終わりきれることはないのですね。過去の余りを持て余しながら誰もが生活をつづけています。わたしの考えだと、「終わり」はすべて虚構です。その虚構に人は助けられたり苦しめられたり。

逆に、こう思うんです。人生が終わっても物語はつづく。なんの物語か、誰の物語かしらないけれど、物語だけが太古から連綿とつづいています。生まれた瞬間、そんな重厚長大すぎて起承転結もよくわからない作者不明の時間のうえにわたしたちは巻き込まれる。死んだときに、あらすじくらい教えてもらえるかもしれません。さいごどうなるんでしょうね、地球とか宇宙とか(笑)。

「終わらない」というのは、このくらいアホでかいスケールの感覚なのでした。いつも大きなことをぼんやり考えています。一個の人間サイズからはみ出しちゃう。しかしあくまで、実生活に根ざしたところから。一個の人間であることも忘れずに。