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日記739





定期的にYouTubeさんからおすすめされるため、定期的にされるがまま聴いている『普通の恋』。「普通」は宗教性を帯びた概念だと聴くたび思う。救いとしてある「普通」。みなが信じるともなく信じている。実体はない。でもどこか、そこらに転がっている。らしい。確かなところはわからない。

だけど、確信をもって詰め寄る人もいる。感情の高まりとともに飛び出す「普通こうでしょ?」という発言はすなわち、その人の信仰告白なのだと思う。すくなくともわたしはそう解する。いまはたぶん、そんな「普通」への信がおびやかされがちな時代。「普通の恋」ですら。苛立っている人が多いように感じるのは、そのせいかもしれない。







「もしも君が孤独だとしても/俺も同じ気分なら普通でしょ」とラッパーのRAU DEFは歌う。ここでは互いの孤独に信をおく「普通」のあり方が垣間見える。RAU DEFの基準点。どこに「普通」を見るかはそれぞれちがう。へんな話。「普通」なのにね。信条の差だと解釈すれば、理解しやすい。







これも「普通」をめぐる歌だと思う。「欲しいものは/おだやかな暮らし」。「普通」に関する歌は数多い。普通ソングのプレイリスト、どっかで誰かがつくっていそう。意外と盲点なのかな、どうだろう。

幼い頃から漠然と「普通」に焦がれる気分がある。正視に耐える、確かな「普通」が欲しい。時代的な気分だろうか。個人的な気分だろうか。両方、不可分な感受性か。

宗教的なおもむきを「普通」の内に見てしまうのも、それを外側から眺めがちであるせいだ。どこにいても異人のような心地でいる。半分くらい。ことばに意味がこもらない感覚というか。異物感。根なし草。ヒップホップが好きなのは、異人性の所産だから。BUDDHA BRANDの『人間発電所』がわかりやすい。のっけから「緑の五本指」だもの。普通がなんだか気づけよ人間。だもの。

自分が特別だと言いたいのではない。異人性のごときものは、誰の内側にもひそんでいる。人間だもの。なにもかも「普通」の人はいない。誰にでもある。言い換えれば個別性だ。そんな、ありきたりなあたりまえのお話をしている。普通の話。つまり、自分が信ずるところの話を書いている。スパッと言い切れやしないけれど。いつだって、そのつもり。

この線で言えば『普通の恋』の歌詞は、菊地成孔という音楽家の「信ずるところ」がビビッドにあらわれているのかな、わかんないけど。コンビニみたいな変哲のない場所、そこで紡がれるアーバン・ブルース、有線放送からのヒット・チャート。普通の音楽のもとで転がる、世界にあふれる、普通の恋。あるいは、「明日なんて知るはずもない」そんな世界観。ナイーブにも、聴くたび泣きそうになります(笑)。

まさかこのぼくが、このあたしが「普通」に還元される。そこにこそ救いがある。神さまは笑って言う。それが普通の恋やでしかし!この歌における「普通」とはつまり、神さまがみとめるものなのだ。そこに「普通」の本質があるのだと思う。さいごらへん、「普通に恋をして」からの恩寵みがすごい。「うっ」てなる。名曲です。






ひとつ前の記事に「ほんとうはなにも終わらない」と書いた。「終わり」はとても虚構的、とも。これに近い考えと、ここ数日で遭遇したので補足的に引用しておきたい。鎌田東二と南直哉の対談本『死と生 恐山至高対談』(東京堂出版)より、南氏の発言。


私の中で「リアル」の定義はひとつだけです。つまり、思い通りになるものがヴァーチャルで、思い通りにならないものがリアルだと思っています。スイッチが切れるものがヴァーチャルで、切りたくても切れないものがリアルだと。p.39


南直哉(ミナミ ジキサイ)氏は恐山菩提寺の院代を務める禅僧。僭越ながら、まさに我が意を得たりというか、わたしよりずっとシャープに「リアル」を捉えておられ、唸ってしまった。切りたくても切れないものがリアル。終わっても終わりきれない、それが現実のやるせなさであり、生きているこの時間のおそるべき豊穣さでもあるのだろう。

もう一冊、関口涼子『カタストロフ前夜 パリで3・11を経験すること』(明石書店)。


 どんな本にも、必ず終わりがある。そして、現実には、必ずといって終わりはない。カタストロフや革命は、だから出来事の途中で書き終えるしかない。カタストロフや革命、戦争は、出来事が終わったと思った時点で終わるのではないからだ。一見それらが終わったように見えてもずっと続いている。この本にはだから、続きが欠け続けることだろう。現実としての続きが。その続きが、悲劇的であるのか、幸せなものであるのかはわからない。結局のところ、わたしはこの本に幸せな終わりを与えることはできなかった。終わりは、存在しないからだ。p.122 


「この本」にかぎらず、あらゆる本にはつづきが欠けている。こう書いてしまっては、乱暴に過ぎるだろうか。ただ、つづきを生きているのだと思う。あの本のつづきを、あの映画のつづきを、あの音楽のつづきを、あの写真のつづきを、あの出来事のつづきを、長い歴史のつづきを。それが現実ではないか。ただつづくのみ。

『本は読めないものだから心配するな』という管啓次郎の著書を思い出す。「本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな」(p.9)とある。本は読んでも読みきれない。「読了」なんて、口が裂けても言えない。読んだそばから忘れちゃうし。映画や音楽だってそうかもしれない。ほかにもいろいろ。というか、ぜんぶ。なにも汲み尽くせやしない。まあ、なんというか……たいへんだ。至らない。途方に暮れてしまう。

「終わらない」は、「わからない」とも言い換えられるだろう。わかったら終わる。わかったら思い通りになるのに。なにが君のしあわせ、なにをしてよろこぶ。わからないまま終わる。いや、わからないから終わらないんだ。それが痛ましい胸の傷であり、よろこびの可能性でもあり、だから君は飛ぶんだ。どこまでも……。

えーと。関口涼子という方は、「著述家・翻訳家」。『カタストロフ前夜』末尾のプロフィールにはそうあった。もともとは詩の人だけれど、「詩人」という肩書きは採用されていない。なんにせよ、禅僧とはまるで異なる。しかし思考の上では共通項がある。お二方とも、「死」についてとにかく思索している。そしてそこから同時に「生」を照射する。

わたしも至らないなりに、ほっといたら「死」を考えている。発想の根幹にあって、離れないほど。そういうタイプの人間は、いつの世にも一定数いるっぽい。どんな問いも結局、宗教や哲学のほうへ傾斜する。蹴つまづいて、ゴロゴロ転げ落ちてしまう。もう、しかたないのだと思う。似たような考えがたぶん一生ぐるぐるまわりつづけるにちがいない。この夏ようやく観念した。遅まきながら。ゴロゴロぐるぐる。







南さんの動画。
YouTube貼りすぎだろうか。

8分あたりから始まる「ズレちゃう」というお話に痛いほど共感する。個人的な問いが消えないために感覚や考え方が周囲とズレてしまう。現に「終わりは虚構」みたいな発想はぜんぜん一般的ではない。自分でもめんどくさい奴だと思うので、人には話さない。相手に合わせる。全力で話を合わせにいく。それが習い性。で、こっちの話はこんな場に書いて晴らす。いまのところは、それで割り切れている。いまのところは。




コメント

anna さんのコメント…
先日、Youtubeに霊長類学の京大の山極先生のスピーチが出てたので見ました。その中で、文化は社会性から形成されるけど、社会性の元になる情報がリアルからバーチャルに変わったり、そのうえコロナのせいで直接会えなくなったりで、リアルでは伝えられていた情緒やことば以外の情報交換とかが希薄になって、文化も変化していくと思うけどどうなるんだろーって話しのようでした。(脱線が多くてわかりにくかったんで違うかもですが。)「普通」は、大多数の人がもつ共通認識という意味では「文化」と通じるんじゃないかなと思いますんで、「普通」もこれから大きく変化していくんでしょうね。

今回の文章で、途中で最初アンパンマンマーチの歌詞と思わず読んでましたが、気づいて「おおっ!ここでアンパンマンくるか~。」って笑ってしまいました。

でっかい台風が長崎にやってきます。友達や知り合いも沢山いるんで心配です。
nagata_tetsurou さんの投稿…
【京都流議定書】キーノートスピーチ(山極壽一氏)
https://www.youtube.com/watch?v=XcBFeIPAW1k

これですね。探して、見ました。おもしろかったです。annaさんのおっしゃる「リアルでは伝えられていた情緒や~」は、山極さんのことばでそのまま起こすと「直観によって得られるような感情世界が取り残されはじめた」というポイントに対応すると思います。わたしもここがスピーチのキモだと思う。

文化はヒトの感情世界を担うものでもあるんです。リサ・フェルドマン・バレットの『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店) や、ジョセフ・ヘンリックの『文化がヒトを進化させた』(白揚社)などの参考文献がスピーチの背景にありそう。

かんたんにいうと、ヒトは遺伝子プールとともに文化という個別的な知識体系のプールも共進化させてきた生きものらしく、そしてその文化は社会性と不可分であり、情動の発達にも関係しているのではないかという(2冊分の超適当な要約)。ヒトは遺伝情報と文化活動を並行的に耕し、地球にのさばってきたんです。

山極さんもざっくり、ふたつのことを対比して語っておられます。遺伝子のように数値化・均質化して分析可能な情報と、文化のような個々の地域や身体経験に依る具体的な活動。この両者が社会にはあり、新型コロナウィルスの蔓延によって失われがちな後者の共有がめっちゃ重要やで!忘れんといてな!というのが、たぶん、要旨かな。

静的にアタマで解する情報と、動的に身体でわかりあう文化の両輪が必要なんやけど、いまは「動」が塞がれがちで、こっちの再構築が急務。みたいなお話。わたしなりの理解では、「わかる」と「わかりあう」の対比ともいえます。「普通」という認識はまさに文化的な、わかりあいの軸線ですね。山極さんのことばを借りればそれは「感情世界」のことでもある。

「普通」ってことばにはそう、感情がこもるんです。「普通においしい」とか「普通にすごい」とか、こんな言い回しは、「普通」が感情の導体であることを明かしているように思えます。「普通」の共有が弱体化した社会では、感情の伝達がうまくいかなくなっちゃうのかもしれません。感情の絶縁体はじゃあ、数値化・均質化でしょうか。

おもしろい動画の紹介、ありがとうございます。
おもしろく接続できたかなー。

アンパンマンマーチの歌詞も「消えない問い」のひとつです。ふざけているようだけど、けっこうまじめに(笑)。やなせたかしの呪いです。わたしも九州に親類や友人がいるのでダイジョブかなーと思います。祈るほかありません。こればっかりは。
anna さんのコメント…
あ。そうそうこの動画です。
ニワトリが哺乳類って書いてあるのを見てびっくりしましたけどね。
(気づいて、ニワトリは哺乳類じゃないですけどーって一応言ってますけど。)
nagata_tetsurou さんの投稿…
世界の哺乳類の量は、人間と家畜が9割以上って衝撃ですね。人間も「自己家畜化(self-domestication)」した動物だという人類学の考え方があって、そうだとすれば哺乳類の家畜っぷりがハンパないです。