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日記740




「普通」ってことばにはそう、感情がこもるんです。「普通においしい」とか「普通にすごい」とか、こんな言い回しは、「普通」が感情の導体であることを明かしているように思えます。「普通」の共有が弱体化した社会では、感情の伝達がうまくいかなくなっちゃうのかもしれません。感情の絶縁体はじゃあ、数値化・均質化でしょうか。


ひとつ前のコメント欄から。自分で書いたもの。「普通」ということばには、感情をつなぐ導体のような側面があるのではないかしら、と。忘れないうちにすこし、こね回しておきたく思った。もちろん辞書的な定義とはちがう側面の話。生活の流れとともにある、ことばの表情を読みたい。

RAU DEFのリリックをもういちど引こう。
「FREEZE!!! feat.Sugbabe」より。


もしも君が孤独だとしても
俺も同じ気分なら普通でしょ


前の記事ではこれを「信条」と読んだ。しかしそれだけではない。ここでの「普通」は孤独と孤独の架線でもある。まさに感情の接続として「普通」が置かれている好例。わたしだけかもしらんが、「ぼくの顔をお食べよ」的なバイブスも感じる。なんとなくヒロイック。

それぞれに個別の「普通」を探り、シェアをする。かんたんではないけれど、自分が人と話をするときは、それが基本的な態度としてある。あるかな? あるといい。以前、こんなツイートがバズっていたのを思い出す。





「普通」を配すことで話がしやすくなる。導体を通じてよどみなく気持ちが流れる。この例は極端だけれど、極端であるがゆえにわかりやすい。日常の会話でも同じだと思う。つまり、生活のシェアだ。その人の「いつも」に何気なくお邪魔する。普通の気分を普通につなぐ。時間をかけて。理想は継ぎ目がわからないほど、そっと。

会話における「気分」の重要性は前々から感じている。人の声を聞くことはその人の気分へアクセスすることにほかならず、会話はまず第一に気分の回転としてある。気分の浴びせ合い。声のみを届けるラジオのパーソナリティは、安定して気分のいい人が多い印象。

普通の気分を普通につなぐ。この考えは、八谷和彦氏が95年に開始した「メガ日記」というプロジェクトの目的に近い。思い出した。きっと忘れない。そのくらい自分にとってインパクトの大きい文章だった。


ぼくがいまここにいること。きみがいまそこにいること。

知らない人の日々の生活を深く知ること。
プライベートとパブリックの間を軽く飛び越えること。
自分と他人の境界をあいまいにすること。
それぞれの人生が尊く置換不可能であることをあえて知ること。
理解不能な他人を愛すること。
不用意で軽率な行為、それを楽しむこと。

メガ日記の目的


インターネットなるものを知って間もない10代のころ、これと出会った。もうプロジェクトは終了していた。「目的」だけを、それこそ知らない人のWeb日記から、リンクをたどって見つけたのだった。いまも、変わらず掲げられている。ここで初めて読む人もいるのかもしれない。






日本語の「普通」は感情世界の窓口。

ともかくこれを念頭に置くと、すこしクリアに世の中が見えそう。先日、ビートたけしが「Go To トラベル」に関して、「たいてい気分がいいから旅行へ行くのであって、病気の心配をしながら旅行へ行くやつはそういない」と話していた。番組のさいごには「まず普通に外を歩きたいんだ」とも。大衆の気分に聡い人だと思う。

ビートたけしのことばは番組内で唯一、感情の世界を語っていた。普通のことばだった。きっと、どんなときも「普通」という導体を忘れない人なのだろう、すくなくとも客前では。その場その場の「普通」を的確に押さえる。だから笑えるし、伝わる。「この人なら話が通じそう」と思わせてもらえる。むろん話したことはないし、身近にいればそれだけではないはず。でも。

批評家・哲学者の東浩紀氏が以前、こんなお話をされていた。笑うと人は、難解な哲学の話でもついていけているような気分になる、と。実際にはついていけていなくとも、笑えるポイントを置けば「ついていけているような気分」が醸成される。このお話には、笑いと「普通」に関する示唆がある。

笑いのツボとは、「普通」のツボなんではないか。共通了解がなければ笑いは生まれない。その場かぎりのものであれ、なにかしら「普通」を共有できなければ笑えないし、笑ってもらえないだろう。「普通」が感情の起点になる。こむずかしい抽象的な雰囲気も、笑いの振動によって一気に「普通」へ均される。

そう、笑いは振動。まずもって身体の物理的な痙攣であり、笑うとき人は身体というホームポジションに帰る。話の細かい内容にはついていけなくとも、身体がついてくる。「普通」の共有とはつまり、身体の共有なのだと思う。「普通のことば」は身体と相即不離なものだ。絶えず個々の表情やしぐさとともにある。

上記のビートたけしのコメントはたぶん、多くの人の身になじむ。身体活動に根ざした発言で、そこに説得力がある。というか、そこにしか説得力はないのではないか……。身体に根を張る感情の声を聞かなければ。

お年寄りと話すとき、よく思う。年をとれば人は身体に病を抱える。それが普通だから、そこに「普通」を据えて接する。病んだ身体を「普通」として共有する意識が感情世界の共有にも直結する。感情の導体は同時に、身体と身体をつたう導体なのだ。それが基本になければ、ことばは通い合わない。経験則として、そう感じている。






考えながら、つらつら書いた。「普通」とか「気分」とかぼんやりしたものについて。それは感情の導体、身体と身体をつたう導体。どうでしょう。自分でも、なるべく自分の身体感覚をベースにことばを組み立てようと思う。

いまいる場所から見える、普通のことばをつかい、受け取る。読み直せば、最初にそんなことを書いていた。「生活の流れとともにある、ことばの表情を読みたい」と。そんな、感情の在り処を突き止めたい。

人間は、みんな感情的だ。前提として、「感情/理性」の単純な二項対立モデルは採用していない。感情は「接地」なのだと思う。たとえば、ことばとことばをつなぐ接着剤のような。それによって連関が立ち上がり、文が接地される。理性は接続の検分・合理化による整地。それもまた感情に基づいてつなぎ合わされる。とにかく根っこに感情がある。誰もがかつて、こども時代を過ごしたように。いまはそんなイメージの人間観を採っている。

柴崎友香の『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社)には、こんなくだりがある。英語が堪能な香港の作家、ヴァージニアに柴崎さんが質問をする。書評でもよく引用されている箇所だ。


 なぜ英語で書かないの? という質問に対して、ヴァージニアは、英語はわたしにとってエモーショナルな言語じゃないから、と即答した。今後も英語で書くつもりはない、と。(p.268)


彼女は英語よりもずっと読者のすくない、広東語で小説を書きつづけるという。なぜなら「英語はわたしにとってエモーショナルな言語じゃないから」。いくら英語が堪能であれ、広東語のなかに自分がいる。いてしまうのだろう。そんな想像をめぐらせる。

感情とは、「いること」だ。「接地」よりわかりやすいの出た。あるいは、どうしようもなく「いてしまうこと」。自分がここにいてしまう。否が応でも。その接地面との摩擦がきっと、感情をドライブする熱源となる。



いてしまう。なんかしらんけど。
それだけがわたしの、ことばの動機なのかもしれない。






コメント

anna さんのコメント…
理系的な考えでいくと、仮に人の普通度みたいなものが測れて、人によるその値のバラツキが正規分布に従うとしたら、平均値から標準偏差の3倍以内の普通度の人が「普通」の人で、それ以上離れた普通度の人が「変人」でしょうか。ということで「普通か変人かの境界」=「標準偏差の3倍の普通度」という定義!(わけわかりませんね。)

長崎直撃の台風では、友達や知り合いに被害にあった人はいませんでした。よかった~。
でもみんな避難所に避難してたみたい。
またきたら、いやだなあ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
それでいうと、平均値にピタッとハマる人も「変人」かもしれません。具体的にはたとえば、顔の魅力です。対称性や平均性といった観点でよく語られる。均整のとれた顔立ちが世間的には「美しい」とされますね。そんな顔はむしろめずらしい。あまりにも整った顔は、少数派という意味で変な顔なんです。「CGみたい」と思っちゃう。

顔の魅力に関しては、「類似」という観点もあります。自分や、自分の親と類似した顔に人は魅力を感じるのではないか、と。もしくは、日頃よく接している顔との類似が選好に関係しているのでは、みたいな説。つまり、それぞれの視覚経験下における「普通」の顔。このひとりひとりちがう「普通」は、上に書いた「感情世界の窓口」にも通じますね。

「測る」というのは基本的に、世界を大網で「うおおおおお!!!」と掴みだす発想なのだと思う。でも、それだけではこぼれ落ちちゃうものもあります。網を上げる途中で「あれ?」「ん?」「これは?」みたいな引っかかりに出くわす。「うおおおおお!!!」と「あれ?」の往還運動でジワジワ投網を手繰ることがたいせつかな。引っかかりを丁寧にほどきながら。

理系はそう、「うおおおおお!!!」って感じなんです。「万物理論」みたいな話に興奮する感じ。annaさんの「理系的な考え」にも大網のバイブスがあふれています。これで大漁でっせ!って感じの。その勢いは、なんか本質的だと思う。笑

わたしの知り合いも、台風の被害はさほど受けなかったようです。天候はおおまかに予測可能なものだけれど、コントロールがききませんね。そのへんのもどかしさがあります。「わかる」と「わからない」の間で引き裂かれる。そんな不快感かもしれません。