9月9日(水)
爆音が静まり、耳鳴りが始まる。
遠くから響く歓声のように。
ひさしぶりの感覚だった。下北沢CLUB251。ライブハウス。知らないバンドを、知らないまま見に行った。受付で目当てのバンドを聞かれ、戸惑ってしまう。やや間を置いて、「NONMALT」と答えた。事前にSNSを通じて名前を覚えていた。きっかけをつくってくれたのがNONMALTだった。
出演バンドは5組。遅れて入場したので、Hard To Forgetというバンドは見逃す。それでもドリンク込の2,600円が格安と思えるほど、いいライブだった。なんというか、クオリティ過剰。事前にほとんど知らなかったせいか……。ネタバレなしでいきなりライブへ行く経験はおもしろい。虚を突かれる。八方から。
ハシビロコウズ。
青い照明が似合う。
久々のライブだったようで「感極まっちゃいますね」とお話されていた。コロナ以後。逆に、わたしは鈍感になり始めていた。感覚が矯め直される。依然として先は見えない。各地のライブハウスも、営業を再開してまだ日が浅い。閉店した場所も身近にある。切実さを、じかに知ることができた。これは、ライブに行ってよかったことのひとつ。
なんだか優等生的なコメントだ。「依然として先は見えない」の紋切り型っぷり……。ワイドショーのよう。世間がしゃべる、通りのよいフレーズ。だから書くと気持ちがいい。しかしワイドショーは「営業自粛」を喧伝しても、「営業再開」はあまり報じない。通りのよいフレーズとともに、通りよく営業再開をつたえておきたい。先の見通しは悪くとも、足元に鮮やかなライトがともっていた。ライブハウス、やってます。
SoberBrown。
「音楽は人をこうする」と思った。
たのしかった。アホみたいな感想だけど。演奏に加え、動きの気勢に感応する。身体がつたわる。とくに鍵盤の神谷茶子さん。独特な、顔を小刻みに傾げながら宙を見つめる感じ。そんでたまに微笑む感じ。合間を縫ってガッツポーズする感じ。頭の振りでメガネが飛びやしないか心配になる感じ。それらすべての原因が鍵盤上の両手に端を発している感じ。「音楽は人をこうする」と思った。
NONMALT。
4thはNONMALT!— ハルナリエイシ@synchre (@AEC_harunari) September 9, 2020
今年の2月のNONMALTの企画"DISTRICT NONMALT 2"に出演させて頂いた以来のご一緒!
今年の1月のGenero-cityで初めて一緒になって。
轟音と音圧。そして説得力。
ぐおー!!!!!#下北沢 #club251 #ライブ pic.twitter.com/tjhpRxaSjg
身体をつんざく音に乗る。呼吸の機先を制すような、内受容まで届くシンプルな感覚。それが「説得力」かなと思う。音と、それ以外の失認。説得とは同時に、失認への誘いでもある。ひとつの時空間に全身が説得され、そのほかの世界がなくなってしまう。音楽による一時的な失認。あたりが静まりかえり、ひとりに戻って思いだす。帰りコンビニでおにぎり買おう、とか。そのほかのこと。
ドラマー、ウエダテツヤさんの笑顔が印象深い。SoberBrownのときもなんとなく感じたけれど、わたしは人の笑顔への感応性が高いのだと思う。よく笑う人とは身体が同期しやすい、というか。タイミングがとれる。自分自身もよく笑ってる。バカみたいに。あと、ウエダさんの脱ぎっぷりがセクシーでした。
ちなみにツイートの写真、左から3人目のシルエットがわたしです。
丸い頭。
Synchre。
「シンカ」と読むそうです。トリ。終わってしまうのが寂しかった。やはり、音楽が好きだと思う。人が赤ん坊に話しかけるような自然さで、音楽は何も知らないわたしにも響きつづける。先が見えたためしなんてないから、自分には音楽が必要なのだろう。音楽という「わからなさ」が薬になる。
ウォルター・ペイターによれば、「すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる」らしい。それは、なんとなくわかる気がする。それぞれの楽曲についてわたしが書けることはない。その都度の「思ったこと」を書いた。変なライブレポかもしれない。写真が免罪符。
蛇足ながら「stuck in the crowd」のMVを見て、セルゲイ・ポルーニンを想起しました。
帰りの電車でWifiに「ピッコロ」と名前をつけている人がいて、「この車両のどこかにピッコロがいる……」と思った。
コメント
昨日、教育番組で9月2日の何か月ぶりかのN響のコンサートの様子をやってましたが、なんか嬉しくなってモーッアルトの交響曲を1曲聴いちゃいました。
早く、いつものことが普通にやれるようになったらいいなあ。
そうそう。音楽の始まりは、むしょうにうれしい。拾わんでいいところでしょうが、「モーッアルト」の誤字に笑ってしまいました。拾わんでいいですね。笑
三重県の松坂あたりでよく見かけます。
って、書き間違いに厳しいなあ。
「厳しい」というより、好きなんです。本を読んでいても誤植を見つけるとうれしくなります(笑)。街を歩いても「ちょっとしたズレ」を写真に収めがち。会話でもことばの意味のズレを気にしてしまう。収まりの悪いものをなおすのではなくて、そのまま肯定的に収めたい。
だからバカにしているのではなく、ストレートに「いいね!」ってことです。「拾わんでいい」ってのは「一般的にはそうなんだけどね」という話で、個人的なトコを白状するならここを広げたいんです(笑)。牛や毛さんの話がしたい。意味を豊かに耕したいのです。
人間はどこからでも意味を汲みだすことができます。それはすごいんです。でこぼこ道や曲がりくねった道、地図さえないそれもまた人生みたいなことです。「モーッアルト」もまた人生!