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日記743


ZOOMS JAPAN 2021、パブリック賞の投票を受け付けている。写真の賞。10月9日(金)まで。審査員気分で不遜にポチッと1票を入れた。写真の技術的な優劣はしょうじき、わからない。「みなさんいい感じ~」みたいなゆるふわ目線でまずはざっと眺め、それから自分の興味のおもむくまま選んだ。

投票画面にはノミネート写真と、撮影者によって記された文章が載っている。ことばも写真の一部として重要だと思う。写真と言語との循環過程。その点でわたしの「興味」はだいぶ絞られた。選びながら、写真家の大山顕さんのツイートを思いだす。



「文章が書けるかどうか」。思えば、自分の選好基準はそれだけだったかも。具体的には、硬質な論考が書けそうな方に投票した。このツイートから約4年後、ことし3月に出版された『新写真論』(genron)のなかで大山さんは、「写真家の定義って何でしょう?」という質問にこう回答している。ついでに引用。


 この質問に対してはさまざまな回答があり得るが、ぼくは「『写真とは何なのか』を言語化できるのが写真家」と答えた。自分が撮った写真について、そしてそもそも写真とは何なのかをちゃんと自分の言葉で語れるかどうか。というわけで、本書はぼくのあらためての「写真家宣言」である。pp.308-309

 

そしてこの「回答」におそらく原型を与えた人物、タカザワケンジさんは『新写真論』の書評においてこう記す。


(…)大山はあとがきで写真家とは「『写真とは何なのか』を言語化できる」存在だとしているが、私はむしろ、写真家とは「写真とは何なのか」を問い続ける人ではないかと思う。優れた写真作品は見る者に写真とは何かを考えさせるからだ。今回、大山は言葉でその答えを出そうとしているが、答えそのものよりもここから生まれる大山の作品に興味がある。『新写真論』の根底にあるのは、この理論を元にした大山の『新写真宣言』だからだ。

 新写真論 スマホと顔 大山顕(けん)著:東京新聞 TOKYO Web

 

「回答」を「問い」に引き戻して、エールを贈っている。芋づる式に思いだした、時間をまたぐおふたりのやりとり。写真と言語との循環過程とはつまり、問いと答えとの循環過程なのだろう。どんなものであれ、投げかけられた問いには未来に対する期待や予感がふくまれている。そのような「問い」そのものの性質は同時に、写真という表象の性質でもあるのかもしれない。

それをそのままにして「あとは知らない」と未来へ放擲するがごとき態度を写真は示す。時間と空間の脈絡を悠々と超え、どこにでも貼りつき、あらわれる箱庭的な四角いかたち。そこに写るさまざまな場所さまざまな時間を串刺しにした、ひとりの撮影者、そいつはいったい何なのか。見ようとすることは問うことへとつながり、やがて絶え間なく過去へ戻されながら進む記憶の時間への巡航にも移りゆく。写真についての語らいは取り逃した夢の断片をめぐる語らいにも似て、そんな瞳の奥の隔靴掻痒に取り憑かれた人間が「写真家」であるにちがいない。

そもそも「~家」という肩書きにはどことなく「一家言ありまっせ」といった趣がある。それを実践するだけでなく、それを通じてこの世界を見渡せる人。たとえばわたしはまいにち料理をするけれど、料理家ではない。料理を「ものの見方」として捉えていないから。音楽をやっていても、ノリだけではきっと「音楽家」とはいかない。「~家」と名乗る以上、それを通じて世界を手ずから掴み出すことばを備えてほしい、理想かな。政治家とかも……。



と、書いていた矢先にinstagram経由で海外の方からメッセージをいただいた。「写真イケてるけど、あなたはプロの写真家ですか? それとも楽しみで撮ってるだけ?」みたいなご質問。タイムリーな問いかけに驚く。拙い英語でこう返信した。

 

Thanks for the good comments. I am not a photographer. I take pictures for fun. And I think to myself, What a wonderful world:D


なんか、てきとう過ぎて申し訳なく思う。英文を書くといつも「ぶっきらぼうかなー」と心配になってしまう。感情の流れがつかめない。しかしノリで文章中に説明なく歌詞を入れるクセは変わらない……。「どこからインスピレーションを得ているの?」と続けて質問がきた。「ひまなとき1日中ひとりでほっつき歩いてます。それが至福の時間です。アイムミスターロンリー」と半ばやけっぱちでつたえる。たまたまベトナム戦争を背景とする2曲がつらなった。

自分の写真は思いのほかグローバルに届くらしい。抽象的な被写体が多いせいか。フォローしてくださる諸外国の方々も、たいてい似たような写真を撮っている。instagramを通して、路上の異物を飽くことなく撮影するタイプの人間が世界中に存在しているとわかった。世の中、捨てたものではない。身近にはひとりもいないけれど。いや、そんなやつばかりいたら気持ち悪い。じゅうぶん間に合っている。




コメント

anna さんのコメント…
メッセージの英語の返信で、最後の文章読んだときに、うわあすごい。かっこいい!って思いました。
歌詞なんですねー。音楽としては確かに聞いたことありますが、And I think to myselfの部分を意識したことはありませんでした。

写真についてるキャプションというか文章って大事ですよね。写真はその瞬間の時間を切り取ってますが、キャプションがあるとその写真が撮られたときの過去とかこれからの未来とかを感じることできますし。
nagata_tetsurou さんの投稿…
かっこいいやつはルイ・アームストロングのパクリでした。どちらかというと、英語を使ったコミュニケーションのほうが歌詞を多用しちゃいます。歌のフレーズなら感情がわかりやすいから。つまり、さわれる。母語でなくとも、歌なら自然と口を突いて出るのね。自分の言語理解は根本的に感情ベースなのだとさいきんになってわかりました。日本語でもおなじです。身体との具体的な接点で理解している。


黙って写真だけをポーンと置き去りにすると、しばしば意味不明になりますね。「ナニコレ?」みたいな。その意味不明さがわたしは好きだったりします(笑)。写真として切り出せば、いつも横切る壁も謎めいた質感で迫ってくる。

じっさい、謎めいているんです。この世界は、どこをとっても。写真はそれを明かす装置なのだと思う。ことばは「その瞬間の時間」を解凍しますね。写真とことばの関係は、個体と液体の関係にも似ている。そんなイメージを抱きます。