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日記748

『「バカ」の研究』(亜紀書房)を読んだ。各界のアタマよさげな人たちに「バカってなんですか?」なんて聞いてみちゃったよ!と、そんな内容の本。我ながらバカな要約……。挙がっている学者の固有名に惹かれて手に取った。

「バカ」というお題に対して、いかなる返答をするか。罵倒語は誘惑的で、油断すると自分の嫌いなものをいいように投影したくなってしまう。「バカってテーマでなんか発言して」と頼まれたら、饒舌になる人は多いだろう。あんなバカがいる、こんなバカがいる、と。この本には地位あるアタマよさげな人たちがたくさん登場するけれど、罵倒語の誘惑に流されている人物もなかにはいたかな。あるいは、サービス精神なのかもしれない。

わたしの見るかぎり、その点でもっとも禁欲的な対応をしていたのは神経科学者のアントニオ・ダマシオだった。だいたいにおいて「一概にいえない」「なんともいえない」といった留保をつけながら話し始める。歯切れが悪く、いってしまえば地味な語り口。

しかし研究者としては、とても誠実。人間の「なんともいえない」複雑さを、なんとかしてつたえようとしてくれる。こういう誠実に地味な発言をする人物が個人的には好ましい。誘いに乗ってくサービス精神も嫌いではないけれど。自分の価値観では、まずなにより「誠実さ」を見てとりたく思う。

細かく考えようとするから、一概にはいえなくなる。わたしはそんな「きめ細やかな物腰」に好意を抱くらしい。引っかかりを押さえつつ、獣道にそっと分け入るためのことばづかい。その物腰は「感情のきめ細やかさ」がつくるのだと思う。論理は人間の感情をきめ細やかに感受し、すくいとるためにあるのではないか。すくなくともわたしは、そんなふうに論理を使っていたい。

 

植込みのつつじと金網との間の、枯葉が吹き溜った狭いところに、茶と白のぶち猫が横坐りしていた。三時を過ぎた陽射しを浴びて、眼をじっとつぶっている。「こんにちは」しゃがんで声をかけてみる。猫は黄色く澱んだ眼を片方あけ、口の端を「に」と剥いた。起されたついでに、痩せて汚れた白い左足を、舐めたくもなんともない風に舐める。

 

「細やか」で連想した。たとえば武田百合子のエッセイみたいな。『あの頃』(中央公論新社)の379ページ。適当にひらいた。どこをとっても、おなじ歩調だから。論理は「歩き方」なんじゃないかな。たまにひょっと立ち止まる、それも含めた「歩き方」。

見えたものを、仔細にすくって歩く。「植込みのつつじと金網との間」「枯葉が吹き溜った狭いところ」「茶と白のぶち猫が横坐り」「三時を過ぎた陽射しを浴び」「眼をじっと……」。抽象的なことばかり書いているせいか、こんな具体を細かくつなげる手つきにおそれを感じてしまう。

具体は骨格なんだと思う。骨の通った文章。そのたびごとの、ただひとつの骨法がことばをつらぬく。二度とない、手厳しいほどの具体で紙面が満たされている。容赦なく具体的。それだけに、すこしさびしくもある。一度しかありえない細部で生じる、ただ一回のことばのしぐさに、わたしはおそれを感じている。

植込みの狭いところにいる猫。うしろからそっと近づいて撮った。シャッター音でこちらに気づく。すかさずもう一枚。きれいな顔立ちの猫だった。左耳のてっぺんが欠けている。地域で管理されている猫なのだろう。触ろうと手を伸ばしても、落ち着き払って逃げない。人馴れしている。

猫と眼が合うと、わたしは決まってまばたきをする。猫にとって、まばたきは愛情表現らしいから。でも、いきなり知らないやつから愛情を表現されたところで、変態にしか見えないか……。効果はわからない。だけど、とりあえずパチパチ。ナンパ。

新型コロナウィルスの影響で、介護施設に入った祖母との面会がずっと制限されている。とくに、若い人はできるだけこないでほしいそうだ。文字通りの死活問題なんだから仕方がない。さいごに面会をしたのは夏だった。ひとりで行った。窓越しの電話なら大丈夫なんだとか。徹底している。

10年以上前に亡くなった人の名前を挙げて、「あの人は元気?どうしてる?」なんて聞かれる。なんともいえない。なんともいえないけれど、なにもいわないわけにもいかないから、「元気だよ、大丈夫」と嘘をいう。どっちでもいいのだと思う。どっちでもいい。わたしにも、わからない。

「いなくなる」っていうことが、ほんとうにわからない。想像上のこの世界と、目に見える物理的なこの世界は明確にわかれていない。わかれてはいけないのだと思う。「老い」について、禅僧の南直哉さんが「ふくれる」とイメージされていたことをたびたび思い返す。箱庭的な想像がふくれる。そのなかでは、誰ひとりいなくならない。きっと。

そんな「箱庭的な想像」はわたしの内にも確実にある。肥大化していないだけで、つねにある。死別した人間は、ほんとうにいないのか?自分の胸に問うてみるに、「いない」とはどうしても言い切れない澱が残る。あるいはもっと卑近に、きのう過ごした時間はもうどこにもないのか?それさえ、わからない。たぶん、鮮明にわかってしまうと気が狂うたぐいの問いなのだろう。わからなくていい。わからないほうがいい。 

これは「具体へのおそれ」にもつうじている。視知覚上に生起する範囲の物理的な、具体物だけの世界では、死んだ人はいない。そう言い切らないといけない。あるものはある、ないものはない。それで済む。しかし、やはり、それだけでは済まないのが人間の営為で、武田百合子のエッセイにも具体だけでは済まないゆらぎがふっとおとずれる。

 

 武田が死んでからは、ミホさんは私に会うと、すぐ涙をいっぱい眼にためてしまう。話していて急に細い勁い声となって、端然と座った姿勢のまま泣き出したことがあった。私に代って泣いてくれているのだ、という気がする。ミホさんが席を外したとき「ミホさんは、よく泣かれます?」と訊いたら、椅子の腕木に両手をだらりと預けた恰好をしていた島尾さんは「そう、ですね。よく、泣くほう、ですね」と、つっかい、つっかえ、返事をした。


『あの頃』、109ページより。「武田」とは、夫の武田泰淳のこと。具体のゆらぎに、感情のかたちがあらわれるのだと思う。「私に代って泣いてくれているのだ、という気がする」。この一文だけ、画然たる具体性からの飛躍を許している。やわらかく、ちいさく飛躍して、またすぐ地に足をつける。

 

 「もうじき一周忌ですね。早いものですね」と、人はいってくれる。「はい」と応えているが、早かったのだか、遅かったのだか、私にはよくわからない。体の中の蝶番がはずれてしまっているのだ。相続などの手続き事務はひと通り終わった。道を歩いていると、夫や私より年長の夫婦らしい二人連れにゆきあう。私はしげしげと二人の全身を眺めまわす。通りすぎてから振り返って、また眺めまわす。羨ましいというのではない。ふしぎなめずらしい生きものをみているようなのだ。


35ページ。武田百合子のことばは、「わかる/わからない」がはっきりしている。「わかる」を全体の基調としながら、ときどきほんのすこし「わからない」のほうへ飛ぶ。その「わからない」が具体のゆらぎとしてあらわれる。ゆらぐのはたいてい、他者を思うとき。「夫や私より年長の夫婦」が「ふしぎなめずらしい生きもの」にみえる。ふたり組をひとりで眺めまわす。数秒のとき。ここに感情のかたちがある。ポエジーの在り処ともいえる。

抽象に感情がこもる。これはもしかすると、一般化できるのかもしれない。「エモい」という、このブログのご感想を複数いただいたことがある。抽象的なことばっか考えちゃう人間はエモい疑惑。詩人はいわずもがな、哲学史にもエモい人物が多い気がする……。どんなジャンルの、なにを見てもわたしは細部の感情をすくいとる論理を探している。一概にはいえない、なんともいえない、わからない、その先でいえる、数少ないことを。

雑談。

いままで幾人かの女性から「トイレで泣く」という話を聞いた。行き場のない感情を即効で処理する方法として。しかし、トイレで泣く男性の話はあまり聞かない。たぶん、いるのだろうけれど。その代わり、わたしが男性から聞く似たような感情の処理法は「トイレで射精する」というもの。下品な話で恐縮だけど、これも複数人から聞いた。

あくまで自分の聞いた狭い狭い範囲における男女差。もちろん、そんなことはしない人が大多数でしょう。でも、なんとなくおもしろい。感情の敗戦処理方法のちがい。「トイレでスクワット」も聞いたことがある。これは男女関係なく。トイレは人間のあらゆるものを流してくれる……。雑談おわり。




コメント

anna さんのコメント…
バカというかバカな人って定義は難しいですね。バカな事を言う人とか、やる人は沢山いると思いますけど、そーいう人でもその時にたまたまバカな事を言ったりやったりしてるだけで、普段はそんなにバカというおろかじゃないし。

ネコの画像とるのってなかなか難しいです。なんか普通にかわいいかわいいやってるときはぜんぜん油断してるくせに、スマホで撮ろうとすると突然なんか「ギン!!」ってなって、ミケ猫さんの2枚目の画像みたいに「なに撮ってんねん!(怒)」(関西弁)って表情になりますよね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「バカなこと」は「ふつう」や「常識」との距離感で推し量ってるのかなーと思います。で、「ふつう」みたいな軸も絶えず変化するもので、一概にはいえませんね。

「バカ」はフラットに言い換えると、「かたより」です。『「バカ」の研究』では「バイアス」ということばが頻出します。かたよった見方のこと。annaさんのおっしゃる通り、つねにかたよっている人はいませんね。いっぽうで誰もが、自分でも気がついていない色メガネをつけてもいる。「かたより」と読みかえることで、すこしクリアになると思う。

ネコを撮るの、むずかしいですね。わたしは野良をいつも、出会いがしらに適当に撮っています。良く撮ろうとは思いません。撮れたらラッキー!くらいの気持ち。野良はたいてい警戒心が強いので「かわいいかわいい」もできない。「はあ?」みたいな表情でも、ありがたく頂戴しています。笑