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日記750

前回のつづき。

『声の文化と文字の文化』と自閉スペクトラム症(ASD)を絡めた仮説は、しょうじき微妙なところもあるかとは思う。しかし一方で、なにかをかすめている感触も確実にある。たぶんあると思う。あるんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟はしておけ。いや、ある。射抜いてはいないけれど、なにがしかをかすめてはいるんじゃないか。

すくなくとも、これくらいはいえそう。いわゆる「ASD」とされる人の感覚入力は、遠い過去の人類と近縁的なのではあるまいか。社会規模がいまよりずっとちいさく、森閑としたなかで、どこまでも地続きな時間とともに人々が生きていた時代の身体感覚にちかいのでは。みたいな線から妄想をぶち上げてみたい。

以下は直観一発の試論(エッセイ)です。
正しいとは思いません。
ただ、ひとつの観点として考えるヒントになれば御の字。

現代社会はとにかく抽象的すぎる。それも、目の粗い抽象。人が多いのだから、仕方のない部分もあるにせよ。規模の大きな社会は、具体的な生活世界を置き去りにしがち。事実として、とても状況依存的で具体的なミクロの感覚入力で生きる人々は、置き去りにされてしまった。断片化された時間に、思考様式が馴染まない。いうなればカテゴリー依存的な思考様式と、状況依存的な思考様式の相克が起こっているのだと思う。

といっても、みなさんたぶんどちらの思考様式も兼ね備えていて、具体と抽象のグラデーション内で生活している。振れ幅がある。これが状況依存性に固着しすぎると、いわゆる「ASD」となる。カテゴリー依存性に固着しすぎる人は「差別主義者」と呼ばれるのかもしれない。現代社会の趨勢はカテゴリー依存的なので、その範囲からこぼれ落ちる人間には医学的な名称が与えられている(どこまでもカテゴライズされゆくさだめ)。

読み書き能力がまんべんなく人口に膾炙した社会は、おそらく公的義務教育が制度化されてからつくられたもので、人類史的にはあたらしい。これも勘に過ぎないし、確かめようのない話だけど、じつは読み書き能力のインストール義務化によってしらずしらず認知的な混乱状態に陥った人々が少数ながらいるのではないかしら。

伊藤亜沙さんの『記憶する体』(春秋社)にあった例を引用しよう。これがわかりやすかった。学習には抽象化がともなう、というお話。


 かるたで遊んでいて、「この札」と〈あ〉という音が結びつくだけでは、「あ」の文字を理解したことにはなりません。札に書かれた丸ゴシック体の赤い「あ」と、例えば本屋の看板に書かれた明朝体の青い「あ」が、物理的には全く別のものであるにもかかわらず、同じものとして扱えるようになること。これが「あ」の文字を理解するということです。
 もしかしたら子どもにとっては、「あ」の札の独特の木目や触り心地、匂い、小さな傷、あるいは染みこそが、最初は「あ」なのかもしれない。でもそれでは文字を理解したことにならないのです。札がもつ物質的な特徴や、フォントの種類やサイズ、用いられている色などのデザイン上の特徴、これらをごっそり捨てて、初めてその子どもは文字を理解したと言えるのです。
 そのように考えると、学習とは結局、あるものを獲得するために、それ以外のものを大量に捨てる作業だと言えます。これが「抽象化」です。p.62

 

熊谷晋一郎さんと綾屋紗月さんのASD当事者研究によると、この症候の根底には「まとめ上げ」と「絞り込み」の困難があるのだという。つまり、あるものを獲得するために、それ以外のものを大量に捨てる作業が身体的にむずかしい。切り替えの困難ともいえる。あらゆるものをひとしなみに見ようとしすぎてしまう。抽象化できなくはないけれど、人一倍の時間と労力が必要になる。

カテゴリー依存的な言語環境がいつも、状況依存的な身体を追い越してゆく。ことばと身体がちぐはぐなのだ。そしてカテゴリー依存的な言語環境はそのまま、カテゴリー依存的な社会環境をかたちづくってもいる。ゆえに、「ASD」の身体はあたかも存在しないかのごとく、透明化されてしまう。自分でも気づかぬうちに、自分の身体を透明化している。つまり「ようわからんけど疲れやすい」みたいな状態に陥りがち。状況依存的な身体感覚を説明する適切なことばが、カテゴリー依存的な社会には(いまのところ)ごくわずかしか流通していないため、診断も後手にまわってしまう。

個人的には腑に落ちる話。ひとりで勝手に仮説をぶち上げて、ひとりで勝手に納得している。これを妄想という……。いや、そもそも読み書きは妄念の成せるわざなのだ。抽象化とは、枝葉末節を振り捨てて疾走する能力のことを指す。疾走した果てに失踪してしまった者も数知れない。騎士道物語にとりつかれドン・キホーテを名乗った郷士、アロンソ・キハーノを嗤うことが誰にできようか。

わたしたちは文字にリアリティを読み込む。しかし一方で、文字は文字にすぎない。文字にした時点で現実からの飛躍を許している。その幻視力に気がつかない読み手/書き手は過剰に文字を信じ込んでしまう。インターネットは読み書きを民主化し、文字の幻視力を広範に行き渡らせた。社会はこうしてすこしずつ、魔術的な様相を呈しているのではないか。

むろん、文字が人類に多大なる恩恵をもたらしたことは事実。わたしもその恩恵に浴している。それはそれはべらぼうに浴している。そのことはまちがいない。そしてもう声だけが飛び交う世界に戻ることはかなわない。インターネット以前の世界へも同様。ならばいっそ、この乗り物に浮かされ、ひたすらに疾走してゆくほかないのかもしれない。

『北斗の拳』のサウザー風にまとめるなら、つまりこう。

 

愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!
愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!

こ…こんなに…こんなに悲しいのなら
苦しいのなら…………

愛などいらぬ!!


というわけにもいかない、みたいな話です。
文字は愛。

わたしはせめて、振り捨てられた枝葉末節を拾っていたい。それだったらどんくさい自分にもできる。ことばを拾うのも、落とし物を写真に収めるのもおんなじことだ。見えないことにされているなにかを、拾って見せる。おおげさにいえば、使命なのだと思う。わたし自身が見えないことにされている人間でもあるから。

ほんで。

ASDの言語理解に関しても、「状況依存的/カテゴリー依存的」という枠組みから洗いなおすことができるのではないか。たとえば、先ごろ文庫化された松本敏治さんの『自閉症は津軽弁を話さない』(角川ソフィア文庫)には、こんなくだりがある。

 

 次の文章を読んでみてください。

 ①彼女は海が好きだ。
 ②彼女は海が好きだった。

 ある講演で、この二つの文章を出して、聴衆に今も彼と彼女は付き合っているかと聞きました。多くの人は、①の場合は現在も付き合っていて、②の場合は付き合っていない(何らかの理由でいなくなった)と答えました。ところが、そのとき一緒に講演をお願いしていたASDの方からは、「私には別の可能性も考えられるから、その質問には答えられない」という意見があがりました。「前は海が好きだったけど、嫌いになったかもしれないし、山が好きになったのかもしれない」。確かにその可能性はないことはありません。ことばだけの分析としてはその解釈を否定はできません。pp.224-225

 

わたしの目からみれば、どちらも「ことばだけの分析」に相違はない。人間の思考はまずもって、ことばに依存している。ちがうのは、ことばの適用方法だろう。どちらの解釈もひとしく否定はできない。否定する必要もない。

ここで「ASDの方」はおそらく、具体的な状況を読もうとしている。この短い文章から状況を読むには、情報量がすくなすぎる。だから「その質問には答えられない」となる。わたしも第一印象では「しらんがな」と思ってしまった。これだけでは状況的な関連がぜんぜん見出せない。

しかし状況ではなく、カテゴリーを問うているのならわかる。ぴょーんと飛躍してマルバツ式に当てはめるだけなら、①はラブラブで②はラブ・イズ・オーバーだといえる。つまり、問い自体がカテゴリー依存的な思考様式から抽象された発想で、そもそもの土俵にバイアスがある。

たった一例に過ぎないけれど、このように「状況依存的/カテゴリー依存的」という思考様式のちがいで説明のつくことは多いんじゃないかな。つづきを引用しよう。

 

 しかしながら、多くの場合、私たちはことばそのものではなくそのことばが使われる、あるいはそのことばを発した人が考えているであろう認識を読み込みます。この社会集団においては、このことばはこのような意味に使用され、その背景にはそれに応じた認識が存在すると考えます。相手も自分もそのことばの背景に同一の認識をもっていると互いにみなし合っています。p.225

この文章で疑いなく自明視されている「認識」を「カテゴリー」と読み替えれば、わたしの図式とも整合する。多くの人は社会集団のカテゴリー(=ことばの背景にある同一の認識)を参照して思考するが、「ASD」とされる人は自分と地続きの状況をもとに思考を展開しようとする。おおきな参照枠の思考(カテゴリー)と、ちいさな参照枠の思考(状況)のちがいともいえる。もちろん、この図式ですべて説明がつくわけではない。しかし、補助線として一考の余地くらいはありうるのではないか。

状況依存的な思考様式の特徴は「自己と地続き」。これに尽きる。自他の境界も判然としていないほど地続きな世界観。対して、カテゴリー依存的な思考様式は「切断操作的」。前提として、自他の境界をはじめ、あらゆるものを截然と切り分けて取り扱う。切断がベースにあるがゆえに、場面の切り替えにも柔軟に対応できる。五感でいえば「触覚的(地続き)/視覚的(切断)」となるかな。

(追記:このへんはもうすこし入り組んでいるかもしれない)

こんなふうに二項図式でスパッと整理すると、すぐに「どちらか」と思われてしまう。それこそがカテゴリー依存的な思考様式の罠よ、気をつけて。現実はこんなにパキッとしていない。世界は分けてもわからない。わたしたちはいつでも、ぬるっとしたグラデーションの内にいて、整理なんかしきれない世界に生きている。ぬるっと生きてるんだ。どちらも入り乱れてるんだ。ぬるぬるしてるんだ。と、自分にも言い聞かせながら、慎重に考えをすすめたい。

『自閉症は津軽弁を話さない』でとりあげられている、タイトルまんまの方言問題はとても興味深く、多様な展開の仕方が可能だろう。上ではちょっと批判めいた書きぶりになってしまったので、フォローしておきます。おもしろい本です!!

ひとつの側面として、方言を関係性に依存した「切り替え式のことば」と理解すれば、ここで書いている文脈にも符合するかな。切り替えが苦手だと、方言を避けがち。共通語一本なら、地続きのままで済むから。

わたし自身、話しことばの切り替えが苦手なので、基本的には誰に対しても敬語をつかう。ガチガチの敬語ではなく、2~3割ほど砕けた調子も混ぜる。それでいい塩梅だと自分では思う。ちなみに一人称もずっと「わたし」で通している。相手の呼称も関係性によらず、ほぼ「さん付け」で通す。

なぜこうなのか、いままでわからなかった。しかし状況依存的という観点から、自己を地続きに保つためだと考えれば納得できる。カテゴリー依存的になりきれないから、裏も表もタネも仕掛けもない話し方を、無意識に選んでいた。恒常性維持的、ともいえる。

ただわたしの場合、そんなに頑固ではない。どっちの思考もなんとなくわかる。なんとなくぬるっとことばが切り替わるときもある。自分の思考はたぶん境界線上に立脚している。でも軸足は「自閉的」。くらいの人間です。ようするに、いちばんぬるぬるした場所にいるやつ。

個人的にはASDに「コミュニケーションの障害」があるとはまったく思っていない。なぜなら、コミュニケーションとは一方的なものではなく相互的な性質のやりとりだから。この点については前回とりあげた『〈責任〉の生成』(新曜社)に明解な批判があった。國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんの連続講義を書き起こした本。國分さんの発言から、引用しよう。


 これほど厳密性を欠きながら、まるで学問的であるかのような顔をして流通している定義も珍しいでしょう。コミュニケーションにおける障害とは、二者の間に生じるずれのことであって、その原因を一方に帰することはできません。まさしく、熊谷さんと綾屋さんが『発達障害当事者研究』で書いていらっしゃるとおり、「アメリカ人と日本人のコミュニケーションがうまくいかないときに、「日本人はコミュニケーション障害」というのは早合点であろう」というわけです。つまり、自閉症的傾向をもつ人が定型発達者の言わんとするところを理解できていないのであれば、定型発達者もまた自閉症的傾向をもつ人の言わんとするところを理解できていないということになります。pp.219-220


このアメリカ人と日本人の比喩は卓抜だと思う。巷間いわれている「コミュニケーションの障害」は文化差にも似ているのではないかなーという疑問から、ウォルター・J.オングの『声の文化と文字の文化』(藤原書店)を手繰り寄せたんだった。

この本には、たしか「文字の専横性」みたいな話もあった。これは私的な感覚の話なんだけど、文字媒体って命令的なところがある。内容は関係なく。文字という媒質それ自体に命令性が宿っていると思う。この命令性に飲まれたり飲まれなかったりしながら、各人の読解記述能力ができあがっている。

いや、命令性というか……「信じろ」「信じたい」「信じてほしい」みたいな謎の欲求が文字の奥底には沈んでいる。いちばん深いところに。わたしは文字のそうした性質に惹かれてしまうし、それを苦々しく感じてもいる。

そういえば『自閉症は津軽弁を話さない』に、こんなエピソードがあった。 


 以前、教育相談での場面でこんなことがありました。体育館で数人の子どもと遊んでいたときのことです。そこには子どもたちに大人気の三輪車がありました。2台しかないので、交替で使うしかありません。しかし、ASDのある男の子はこの三輪車から降りようとしません。学生が何度も「順番で使おう。降りてください」といいますが、無視するように振り切ってこいで行きます。私が、画用紙に「三輪車は順番で使います。三輪車から降ります」と書いて彼にみせたところ、文字読みが大好きな彼はすぐに声に出して読みました。読み終わると、三輪車を降りました。
 しかし、その直後に彼はその画用紙を掴んで引きちぎって床に叩きつけました。「降ります」には従わざるを得ない、従ってしまう、でもそれは自分の意図ではない。そんなことを考えさせられた場面でした。pp.247-248 

 

文字に対する、男の子の愛憎。「愛などいらぬ!!」といわんばかりの。文字という第三者の介入によって、彼は三輪車から降りた。その第三者性が、彼の世界に不協和をもたらしたのかもしれない。ふって湧いたように命令してきた文字、おまえはだれやねん!と。

文字の第三者性のおかげで、人類の世界はぐーんと広がった。一方で、個人レベルではいらんこというやつがつねに行動を規制してくるような感覚もぬぐえない。私的な「感覚」にすぎないのだけど、このエピソードはその点ですごく示唆的だ。「内面」はおそらく、こんな葛藤から生まれるものだと思うから。

文字の命令性、第三者性、これに対する愛憎、内面……。

いまなんとなく、「命令形」という田村隆一の詩を思い出した。関係ないかもしれないけれど。とりあえず引こう。書きながら考える。



ゆき
ゆき
もっと ふりなさい

狐のような女の詩人が歌いながら
ぼくの夜の森から出ていったが
この歌の命令形が好きだ

追ってゆきなさい、詩人よ、まっすぐ追って
夜の奥底までもゆきなさい、
束縛をとき放つあなたの声で
喜び祝えと、われわれにすすめてください。

ライオンのような詩人が
心の病をいやす泉をもとめて
死せるアイルランドの詩人に祈った命令形が好きだ

人は人に命令できない
命令形が生きるのは

そして詩の構造の光と闇の
谷間にひびく
人間の言葉



この詩の命令形が好きだ。縛りつけるのではなく、束縛をとき放つ。うつくしい命令形。「人は人に命令できない/命令形が生きるのは/雪」。命令形とは、祈りのことでもある。

自閉性は「状況保存的」ともいえるかもしれない。自閉者の行動はどこかしら保存的にみえる。必死で「いま」を守ろうと、逃すまいとしている。そんなようすが、ときに胸を打つ。それは祈りにも似ている。

 

ゆき
ゆき
もっと ふりなさい


まさにこの、命令形のような。

わたし自身にも、あらゆるものを保存しておきたい欲求がすくなからずある。いかないでほしい。始まりも終わりもなく、すべての「いま」が永遠につづけばいい。雨なら雨で、いつまでも降り止みませんように。晴れなら晴れで、どこまでも光が降り注ぎますように。時間を止めたい。「終わり」はかなしい。こうした現在地への敬虔さに「自閉性」の本質があるのではないだろうか。わからないけれど。

これはきっと、ヒントになるはず。


12月13日(日)

根岸の古書店ドリスで『声の文化と文字の文化』を購入した。立ち寄ったら、たまたまあった。だいぶ前に図書館で借りて読んだけど、このさいもう買うべきだと感じた。3,300円。なかなかのお値段!と思いつつレジへ持っていくと、線引きがあるからと300円まけてもらえた。ちょうど3,000円を支払って帰る。

たまたまあるって、おもしろい。なんでたまたまあったのだろう。それはわからない。世界はぬるぬるしている。電車のなかで本をひらくと、思っていたより大量に線が引かれていた。前の持ち主の興奮がつたわる。書き込みのある古本は、著者が増えたのだと理解している。読み手/書き手も、それほどきれいに分けることはできない。書かずば読めぬ。

自宅までの道すがら、「サンタさんじゃないよ!お父さんでしょ!」とちいさな女の子が大声で叫んでいて、吹き出してしまった。



コメント

anna さんのコメント…
ううう。。。難解です。
5回ぐらい読み直してみたんですが書いてる内容をあまり理解できませんでした。
なんで理解できないんだろうと考えてみたんですけど、やっぱ「状況依存的/カテゴリー依存的」の違いがそれぞれ抽象化とか自分からの連続性といった説明はしてもらってるんですけど、直感的に私がわかってないせいかなと思いました。単に私の頭がぽわんとしてるせいかもしれませんが。
nagata_tetsurou さんの投稿…
5回ぐらいも読み直してくださるなんて、なかなかないことです。ありがとうございます。ガンガン食いついてこられても「お、おう……」とビビってしまうので、「よくわからん」くらいがちょうどいいというか、それがふつうなんだと思います。わたしは「変な人」の役で、じつはannaさんがこのブログの基準点なのです。笑

鍵は「文字」のイメージかなー。

わたしは実物のannaさんを知りません。annaさんも実物のわたしを知りません。お互い、文字だけを通して、知り合っています。かなり抽象的な関係ですね。文字って、仲介者なんです。実体からは離れた、代理人、エージェント、身代わり、神の遣い。みたいな。笑

状況依存的な観点からすると、annaさんのことはなにもわかりません。しかし文字からは、大雑把な予測が成り立ちます。おそらくひとりの女性であり(ふたりいる可能性もよぎります笑)、関西にお住まい、猫とクラシックがお好き、爬虫類はお嫌い。とかとか。でもこれはあくまで大雑把な予測にすぎません。

なんとなくの想像ですがたぶん、annaさんは書きことばと話しことばをふだんからそれほど分けておられないのかな。声で話すことと、指で文字を打つ/書くことのあいだに、感覚のちがいがさほどない。そうすると「文字の第三者性(代理性)」はピンとこないかも。

わたしは、話す/書くをいつも明確に分けています。声のリアリティと、文字のリアリティはちがいますね。状況依存性は声に根ざしていて、カテゴリー依存性は文字に根ざしている。これがこの記事の発想の基本にあるんです。

どうでしょ。うーん、『声の文化と文字の文化』を読み終えたらまた(たぶん!)書くので、そのときに突っ込んでください。笑