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日記751

ひとりでいるときは広くありたい。誰かといるときは狭く。人と人が出会える領域はとても狭い。広いところではすれちがってしまう。人間関係においては狭さをだいじにする。固有の姿を見失わないように。ひとりであれば、スケールのおおきな領域にいてもいい。宇宙やべーみたいな。そのバランスで呼吸がととのう。

つまり、「わからない」と「わかる」のバランス。わからない領域は気が遠くなるほど広大で、わかる領域は切ないほどごくわずかだ。「わからない」の沃野を歩く人はだれでも孤独になる。孤独なばかりでは頭がおかしくなってしまうから、「わかる」へ戻ることも忘れてはいけない。

しかしごくまれに、だだっ広い空間で人影を見つけることもある。遠くのほうに、ぽつんとたたずむ。人なのか、ほんとうのところかたちもよくわからない。だけどもしかしたら、あっちのほうに人がいるのかもしれない。あの人には、なにかがわかるのかもしれない。わたしにとって文章を読むことは、そんな淡い期待にちかい。

記号はつねに、そうであるかもしれない度合いをもたらす。すべての文字列は「そうであるかもしれない」ものだと思う。というか、わたしたちの存在自体が「そうであるかもしれない」ものだ。端的にいえば、蓋然的なもの。きっと。すくなくともわたしは、そうであるかもしれない度合いを読んで、そうであるかもしれない度合いを書いている。

またなんかよくわかんない話をしてる。

はじめはもっとゆるふわな日記だったと思う。もはや日記ではない。それに、なぜかどんどん思索的になっている。といっても思いつきの域を出ないし、あまり真面目でもない。自分では、自分のふざけた態度を信用している。半身でふざけているから「真面目さ」を疑える。ぜんぶ大真面目な人はこわい。話が通じそうもない。「ふざけた態度」は言い換えると、話が通じそうな余白。劇の世界に埋没しきらない道化役が観客と舞台をつなぐ。内側の秩序を乱す道化は、外側へのパイプ役を果たしている。みたいな、シェイクスピア劇の構造を思い出す。

ことしは体をよく動かした。そこそこ体型がカッチリして、関節の可動域も広がった。三十路を過ぎれば、一般的にはたるんでくるのだろう。わたしの場合、三十路を過ぎて気合の重要さがわかってきた。つまり、アニマル浜口の重要さがわかってきた。結局、気合だ。気合なんだ。気合に生き、気合に死ぬ。理屈は二の次。さまざまな変節を経て、いまはそういう態度でいる。最初から「気合の人」ではない。

悩んだすえに、人間は「気合」みたいな意味不明な概念に浮かされて生きているのではないか?という、非常に頭の悪い仮定に至った。何周もして「気合」に行き着いた。横文字でいえば、エラン・ヴィタール的な何か……。いまのところ、自分のなかでもっとも説得的で、もっともリアリティのある生の理由。それが「気合」。体を万全に仕上げることで、ようやく人並みに働ける。そんな自分の弱さを自覚したこともある。人生は修行だと思う。

三十から体を鍛えはじめるって、そういえば三島由紀夫みたいで可笑しい。いや三島ではなくとも、たくさんいるか。それにわたしは最低限ととのえるために鍛えているだけだ。ボディ・ビルをやりたいわけではない。身も蓋もない虚無感にとらわれがちなので、身で蓋をする方法が身についたような面もある。虚無を覆い隠す、うってつけの概念が気合。

「がんばる」とか「元気」とかも、虚無の隠蔽に役立つ。だいじなことばだ。ありふれたことばをたいせつにしようと、だんだん思えてきた。「ふつう」との接点を見失ってはいけない。人と接するときも、個々の「ふつう」をまず想定する。これは肝に銘じておきたい。

劇空間と客席をつなぐ道化は、いわば「ふつう」を知る存在なのだと思う。劇の登場人物でありながら、そこからはみ出すふるまいを見せる。あるいは人間でありながら、人間の外側にいるかのような。わたしでありながら、わたしから飛び出すような。「ひとり」を良しとしない。一個の役にとどまらない存在が道化なのかもしれない。つねにズレを宿している。そして、そのズレのおかげで分け隔てられた空間がつながる。笑うとき人は主/客の構図をまぬがれ、どこの誰でもない「ふつうの人」になる。

笑っちゃうと、ちょっと悔しい。悔しいけど、どうしようもなく笑っちゃう。これってたぶん、主体性が奪われるからなのだろう。自分の意志とは無関係に、体が痙攣してしまう。逆に笑わないときは、自己の一貫性に忠実なとき。頑固さは、表情の一貫性で表現されるもの。

ことしはなんやかんやあって、ものの見方が大きく変わった。まず第一に、人類はそれほど「個」ではない。ごくあたりまえのことが腑に落ちた年だった。視界がいくらかクリアになったと思う。「個人」は一時代の理念に過ぎない。これはこれでたいせつな理念だけれど、個人を「主」に据えてこだわると見誤ってしまう出来事も多い。人は集団のなかで、多くの声に囲まれて生きている。うんざりするほどあたりまえのことを自分もろともちゃんと飲み込めた。

もうひとつ、「老い」について。「老い」とは、なんとも摩訶不思議な経験なのだろう。老いゆく祖母を間近で見て、それを強く感じた。自己がどんどん摩訶不思議なものへと変貌していく。生きているという事態がもともと摩訶不思議なのだけど、その不思議さがさらに加速していくような。先取りして若いうちから、生きている不思議に目をひらいておくと「老い」の予行練習になるかもしれない。来たるべき「老い」のために、あらかじめ自己を不可思議にしておく。能天気な発想だ……。

ほかにも変わったことは多くあると思う。でも、いま浮かんだのはこれくらい。変化があっても、すぐに慣れて以前以後の差を忘れちゃう。これも痛感。ただ巻き込まれ、流されていた1年だった。

あと1回、年内に更新できたらいいなと思います。できるだけ、くだらない内容の。「年の瀬にうんこ漏らしちゃって、たいへんでしたよ~」ぐらいのおめでたい出来事が残り数日で起こればよい。起こらなくてもよい。



コメント

anna さんのコメント…
どーもー。複数人疑惑のあるannaです。安奈(私の名前はこの字ですが)はもちろん一人ですし、annaは安奈のIDなので結局結論は一人です。何言ってるんだかよくわからないですけど。
私の場合、もっとも「気合い」を込めるのは、朝、目が覚めて「あ~、仕事に行きたくなーい。でももう起きないと遅刻するし起きるか~。えいっ!」と布団から出るときですね。
あ、今日はクリスマスイブですね。I wish you a merry Christmasです。

nagata_tetsurou さんの投稿…
大丈夫、おひとりですよね。しかし名前のみでは複製可能なので、証拠としては弱いです。「おなじひとりの人」となんとなくわかるのは、やはり雰囲気ですね。「らしさ」みたいな。たとえばannaさんなら、「どーもー」から「です」を4回つづけて「けど」へ収める、この語尾のリズムは「確かにannaさんらしい」と思えます。その人らしさって、私見ではリズム感によくあらわれるんです。

annaさんの文章はとてもリズミカルです。リズムに先導されてことばが流れている感じ。二段落目は「あ~」「なー」「か~」「えいっ!」が象徴的。音にことばが乗っています。韻の生理がわかりやすい。意味よりもまず、音を動力源とした書き方だと思います。

ちなみに、目覚めたらすぐに手足をグーパーグーパーすると血流が改善されて起床しやすくなるそうです。ワンポイント健康情報でした。

そしてきょうはクリスマス・イブ。で「安奈」といえば、甲斐バンドですね。79年の楽曲。ちょうどクリスマスソングで、時期も漢字もぴったり。完璧なタイミングで字を明かしてくださいました。

https://www.youtube.com/watch?v=cUW4rJaODvs

寒い日がつづきます。お風邪など引かぬようあたたかくして、よいクリスマスをお過ごしください。起床がつらいときは手足をグーパーしてみてください。