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日記752

ひさしぶりに、くら寿司へ行った。あのシステマチックな回転寿司チェーン。以前よりシステム化がすすんでいたような。むろん食事目的なんだけど、それよりなにより個人的には「体感なんだ!」と思った。アトラクション的。こどもがはしゃぐのもうなずける。なんか新鮮な発見をした気分。

これはしかし、とくに目新しい視点ではないのだろう。「くら寿司 アトラクション」で検索してみると、おなじことを書いている人がちらほら見つかった。そうそう。乱暴に言い切ってしまえば、食事がメインの場所ではない。

遊園地のアトラクションとほとんどいっしょ。ラインのうえをガチャガチャ動いて、ワーキャー言って、はいお会計。完全にシステムの一部となる。寿司もさることながら、人間のほうも露骨にまわされている。このシステムに乗れない人間は、ぜんぜん楽しめないのだと思う。これも遊園地と似ている。

ポジティブに表現するなら「アトラクション」。いっぽうで、もうひとつ連想したのは家畜の管理システムだった。まるで養鶏場のニワトリ気分。しょうじき、こっちの印象のほうが強く、わたしはどちらかといえば「家畜ごっこ」と思って楽しんだ。くら寿司へ行けば、エサをついばむ鳥になれる。ブタでもウシでもなんでもいい。人間に疲れたら、くら寿司へ行こう。

ネガティブで皮肉っぽい言い草だけれど、システムにすっぽりハマって匿名的な存在になると気持ちがやすらぐような面は確実にある。ことしは余裕がなくて「刑務所に入ったほうがラクなんじゃないか」と思っていた時期がすくなからずあった。番号で呼ばれ、なにもかも管理されて、ある意味では無責任になれる……。しかしそんなものは夢想に過ぎない。刑務所はたぶん、もっとつらい。

ただ自由よりもずっと、不自由がほしかった。さっさと耄碌して、馬鹿になってしまいたい。これが正確か。刑務所には入りたくない。それにしても、なんて希望のない人間なのだろう。いや、うーん、そうだな……。

「不自由がほしかった」は言い換えると、「修行が足りなかった」ってことなのだ。不自由を得る自由の行使が修行。そう解釈すれば希望の光がちらつく。わたしにとっての「修行」は、正しいおこないのことではない。自分の愚かしさを知悉することだ。

 

自分はいかなる馬鹿であるか、
自分はいかなる馬鹿になるか、
いかなる馬鹿として自分を見るかが、
多様な人生観のわかれめとなる。

 

横山隆一『百馬鹿』(奇想天外社)の帯に採用されていたという、鶴見俊輔の文章。『ことばと創造 鶴見俊輔コレクション4』(河出文庫、p.110)より。自分はいかなる不自由を抱えているか。あるいは、いかなる不具者であるか、ともいえる。こんなロジックを好ましく思う。なんでもそう。不自由から自由を、悪から善を、疑心から信心を、「ない」から「ある」を考えたい。

ムショ入りの代わりに瞑想でもしてよう。
お寿司、おいしかったです。

 
くら寿司の話が暗めになってしまったので(「くら」だけに!)、もうちょっと書く。これでは終われない。いまなんとなく一個、ほめことばを思い出した。それで気持ちよくことしを終えたい。

なぜか「占い師に向いてる」と、いろんな人から言われる。転職しようかと思うくらい。占いについてはなんにも知らないのに。とりあえず「ものわかりがいいね」みたいな意味の、おほめのことばとして受けとっている。しかしそれだけでは謎が残るような。人が「占い」を感じるのはどういうときなのだろう(あれ、気持ちよくいかない……)。

ひとつ「因果の説明」という観点が浮かんだ。わたしたちは生まれてこの方、原因のわからない結果に囲まれている。出目の結果にしたがい、ひとまずは生きている。たとえば自分の性別や人種に疑念を呈する人は少ない。あるいは「人間ってなんやの?」などと考え込む人もそんなにいない。

ほとんどの人は根本的な原因を問うことなく、結果から結果へと自分をフィットさせてゆく。それはたいへん健康的で、すばらしい。「原因」は体に悪い。問わないに越したことはない。人が占い師に鑑定を依頼するタイミングは往々にして、うまくいかない不安なときだろう。どうしてこうなったのか、これからどうなるのか、わからなくなってしまったとき。現状に疑問をもつとき。迷うとき。人は自分の因果の再構築に奔走する。

わたしはといえば、つねに原因を知りたがっている。生きてるってなに?みたいな問いを、いつまでたってもうまくごまかせない。まったく不健康だ。迷える子羊そのもの。でもおそらくそのおかげで、占い師っぽいことばづかいが身についた可能性が高い。いつも迷っているから、迂回路に詳しくなってしまった。道草や迂回だけが取り柄かもしれない。油売ってる。遠回りしまくる。悪くいえば「めんどくさい人」。

不健康な自覚があるぶん、べつの側面として、治療的な心もちも忘れない。ケアを最優先に考える。痛みに聡くありたい。意識にのぼらない鈍痛まで考慮する。自分をふくめ、誰もが痛みを抱えて生きている。こうした人間観のもとで、ことばを聞いたり話したり読んだり書いたりしている。

さいきん、ジョージ・ソーンダーズの『人生で大切なたったひとつのこと』(海竜社、2016)という薄い本を友人からもらった。講演を書き起こした、短くてシンプルなお話。「やさしさ」について書かれている。シンプルなだけに、とてもむずかしい。「やさしさ」ってなに。

人は痛むとき「やさしさ」を必要とする。痛みの存在しない世界にはきっと、「やさしさ」も存在しない。痛みはできるなら、ないほうがいい。痛いことなんか知りたくないし、考えたくもない。自分の痛みでさえ。見たくない。そうなってしまうと「やさしさ」もまた、わからなくなる。

いなくなった同級生のエピソードが印象的だった。静かにただ、いなくなった。やさしくない場所に人は、いられない。「やさしさ」とは、「つなぎ」なのだと思う。余白というか。のりしろ。そう、接着面みたいなもの。

自分をかえりみて、「つなぎ」よりもロジカルな割り切りに明け暮れていた20代を反省する。30代は「自分で自分を治療しなくてはならない、危ない患者のようなものだと思って(p.52)」過ごしたい。いや、これは一生のことだ。油断するとすぐぶっち切りたくなる。「刑務所のがラク」なんて思っちゃうから。危ない患者そのものじゃん。

たぶん良い占い師は、「うまくつなぐ人」として機能している。ことばとことばをうまい具合につなげる。「占い師に向いてる」とおっしゃってくださった方々は、わたしの言語能力を「つなぎ」として高く評価してくれたのだろう。すごいつながった!って。余白を発見して、かつ接着剤も提供できた。そう思うと、うれしい。ありがとう。

しかし「占い」ってものがなにを意味するのかまだまだよくわかっていないので、これはひきつづき宿題とさせていただきます(めんどくさい人!)。

雪見だいふくのフォークでした。

それでは、よいお年をお迎えください。
さよなら2020。

 

 


コメント

anna さんのコメント…
近所の回る寿司屋さんにはたまに行きます。安くてそこそこメニューにバリエーションあっていいんですけど、一人ではなかなか入りづらいですね。でも、養鶏場のとりさんぽいって発想はなかったなあ。まあそう言われるとそんな感じはありますねー。

昨日の夜、関西は雪が降って積もりました。めっちゃ寒いです。この時期、例年だと台湾に里帰りなんですが、今年はコロナのせいで雪の中でおこもりさんです。今日は、大晦日です。よいお年を!
nagata_tetsurou さんの投稿…
ひとりで遊園地に行くのも、勇気がいりますね。回転寿司は遊園地と似ています。そう、あと飲食業の接客無人化がどことなく畜産体制に似てきてしまうのも、すごくおもしろいなーと思うんです。いまのところ個人の印象にすぎませんが、無人化がすすむにつれてこういう指摘は増えると思います。

つまり、第三次産業が第一次産業に似てきているんです。「遊園地っぽさ」でサービス業風味をギリ保っているのね。テクノロジーによるこんな産業の変化を肌で感じて、ひさしぶりのくら寿司はめちゃんこおもしろかったです。

こちらも朝から寒いです。きょうは風がほんとうにつめたい。ウチも例年だと親戚の集まりがあります。でもことしはなんにもなし。どこへも行きません。そんな大晦日です。

ことしもお世話になりました。感謝しています。あったかくして、よいお年をお迎えください!