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日記755

1月24日(日)

年が明けてはじめて、介護施設の祖母と面会した。相変わらず施設内に入れてもらえない。当面は無理か。いまにも雪へと変わりそうな雨のなか、窓ガラス越しに電話をかける。短い時間、短いことばを交わしあった。人はすこしずつ名前をなくしてしまいたい生き物なのではないか。帰り際に、なんとなく思う。

施設のなかではおそらく、なにをするにも名前が必要になる。自分の名をいちいち意識せざるを得ない暮らしを想像する。馴染みのない人々に囲まれているのだから仕方がない。家族間であれば名乗ることはない。はじめから身体的な質感で接することができる。わざわざ名によって自己を顕示しなくとも、お互いに「いるね」とすぐわかる。

持ち物をさしいれするとき、かならず名前を書くよう施設の職員さんから注意を受けて、なんともいえない気持ちになった。どこまでも名前がついてまわる。言ってしまえば、それだけよそよそしい場所に祖母は置かれている。

「名前がついてまわるのは、さびしいことだよ」と親に話した。誰もそんなことは考えない、らしい。「持ち物にかならず名前を書く」という規則から、「さびしさ」を読み取る人間は少数派なのだろうか。それもさびしい話だ。

 

どんなことがあっても、子供の名前のほうにではなく、生きものの名づけようもない魂や皮膚の色つや、心の照りかげりのほうに味方して、味方して、味方しすぎることはないと思っている。

 

荒川洋治と井坂洋子の共著『理屈』(フレーベル館)より、井坂さんのことば。「味方して、味方して、味方しすぎることはない」。わたしもそう思う。ぜんぜん味方しなかった過去の出来事もぽつぽつ浮かべ反省しつつ……。

祖母はいつも家族にしかわからない態度で、家族にしかわからないことばを話してくれる。新年早々、ちょっとだけお怒りのごようすだった。ずいぶんむかしのことを、思い出したのだと。記憶が原型をとどめないほど滲んで、事実とは異なる内容ばかりだけれど、正すことはしない。聞き取るべくは「心の照りかげり」だけでよいのだと思う。

客観的な同一性よりも、主観的な異質性の味方につく。人はファクトベースで生きているわけではない。これは肝に銘じておく。「さびしい」と言われても、以前のわたしは「主観的すぎて困る」と思っていた。なんなら「知るか」と反感さえ抱く始末だった。いまなら、理に落とそうとせず、体で受ける努力をする。なにもかもまるっと他者の気持ちが理に落ちるわけもない。落とす必要もない。

 

 「でも、ここはとてもすごくさびしいんです」とアリスはゆううつな声で言いました。そしてひとりぼっちなのを考えると、おっきな涙が二つ、ほっぺたをつたって流れ落ちました。

 「あらあら、ちょっとおよしなさいって!」とあわれな女王さまは、困り果てて手をもじもじさせます。「自分がどんなにえらい子か、考えてごらんなさいな。きょう、どれほど遠くまできたか考えてごらんなさいな。いま何時か考えてごらんなさいな。なんでもいいから考えてごらんなさいな、なんでもいいから、とにかく泣くのはおよしなさいって!」

鏡の国のアリス 第5章 ウールと水(山形浩生 訳)


「考えてごらんなさいな」。そう言って白の女王は、アリスを泣きやませる。かつての自分は、この「考えてごらんなさいな」をよしとしていたように思う。人のまじめな感情を理知的なゲームの領域に押し込めていた。ゲームの外部へひらかれた穴を、あわててふさぎにかかるように。未知を拒絶していたのだ。

中井久夫の「信なき理解の破壊性」をふたたび思い出す。

 

 親密で安定した関係をつくろうとする努力は、長期的にはかえって患者の「うらみ」を買いかねない。理解しようと安易につとめるならば「わかられてたまるか」という怒りを誘いだす。

 患者は「わかられない」ほうが安心している。理解を押しつけると、今度は「わかっていない、もっと理解せよ」という際限のない要求となる。人間は人間を理解しつくせるものではない。だから「無理難題をふっかける」というかたちの永遠の依存になってしまうのである。

 「理解」はついに「信」に及ばない。あなたの配偶者や子どもを「信」ぬきで理解しようとすると、必ず関係を損ない、相手を破壊する。統合失調症の再発も確実に促進する。

 婚約者にロールシャッハ・テストを施行しようとする精神科医はフラれて当然なのである。ロールシャッハ・テストは、治療者の「ワラをもつかみたい」気持ちで手がかりを求めるときにおこなうものである。人格障害といわれる人は「信なき理解」にさらされてきた人であるかもしれない。

中井久夫+山口直彦『看護のための精神医学/第2版』(医学書院、p.230)

 

何度でも引用して、いくらでも捉えなおしたい。医療に限定されない、とてもたいせつなことが書かれていると思う。直観的な思いつきだけれど、「永遠の依存」は『鏡の国のアリス』のテーマにも通じていそう。どうにかすれば、この線で全体を読むこともできなくはないだろう。

さびしさは「信」への問いかけではないか。「信」を問うアリスの涙を、白の女王は「理解」で丸めこもうとする。あるいは、名前への問いかけともいえる。人は自分の名前を忘れるときもっとも安心している。「ひとりぼっちなのを考える」ことは、自分の名前を強く意識してしまうことにほかならない。

安心して名前を忘れるためにはきっと、長いながい時間が必要になる。「理解」は記憶で、「信」は忘却なのかもしれない。「理解」はあることを物語り、「信」はないことを物語る。見えるものと、見えないものとのちがい。

自分が自分でありつづけなければならないひとりの時間は寄る辺なく、たよりない。「ある」ばかりでは、さびしくなる。人はいつでも見えない力が必要だったりしてるから。

さびしさは、「忘れたい」って気持ちと似ている。わたしを、もうすこしわたしでないものにしてほしい。そう願う感情なのかもしれない。分離してほしい、というか。あたりまえだけど、「わたしでないもの」がないと人は生きていけない。すなわち、他者がいないと。

コミュニケーションは忘却のためにあるのだと思う。そのあとで、わずかに残る忘れられないものがわたしになる。ごくわずかな残りもの。この世界のほとんどはわたしではない。安心してそう思えるために人はことばをつかうんじゃないか。世界は知らない人でできている。わたしはあんまりいなかった。きょうも、そんなにいなかったね。


 

 

日本翻訳大賞を受賞した、ハリー・スタック・サリヴァンの『精神病理学私記』(阿部大樹・須貝秀平 訳、日本評論社)を買おうと思いながら、値段で二の足を踏んでいる。税込み6,050円。でも買う。はず。

サリヴァンの翻訳といえば、先に名前を挙げた中井久夫が多くを手掛けていた。『精神病理学私記』は中井先生のお仕事を引き継ぐようにして、次代のお二方が訳出されている。おふたりとも90年生まれ。自分と同世代。うっすら親近感がわく。

受賞に際して行われた「翻訳ラジオ」を聞いて、上記の「理解」と「信」をぐるぐる思うための参考になりそうな本かなーと感じた。だから、お高いけど買おうかなと。

サリヴァンの原文は、あえてことばを複雑に折り畳んでいるようで非常にわかりづらいのだとか。それだけに訳業は大変だったという。わかってほしい、だけど、かんたんにわかってもらっちゃ困る。こんな心の迂回路がつまり「信」の希求なのだとわたしは直観する。

「わかっていない、もっと理解せよ」という要求は、「近すぎる、もっと迂回せよ」と言い換えることもできそう。他者はいつも遠く、見えないところにいる。ついに触れることのかなわない未知の先に。「これが正解」と思った瞬間、見誤ってしまう。あーでもあり、こーでもあって、あーでもなく、こーでもない。それはもしかすると、ことばの性質そのものでもあるのかもしれない。

「翻訳」をめぐる翻訳者たちのやりとりもまた、「理解」と「信」のいったりきたりを語っているように思えてならなかった。あるいは顕名と匿名、同一性と異質性、記憶と忘却。どこを裏切って、どこの味方につくか。そんな狭間で、翻訳をする人たちは絶えず引き裂かれるのではないか。と「翻訳ラジオ」全5夜を聞いてなんとなく感じた。

 

「翻訳ラジオ」全五夜アーカイブ | 日本翻訳大賞 公式HP


1月31日(日)23:59まで聞けるそうです。第三夜だけYouTubeで、ほかはstand.fmから聴取できます。ちなみにもう1冊の受賞作、デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』(加藤有子 訳、松籟社)は2019年3月に購入済み。instagramに載っけた記憶がある。好きな作品なので、うれしい。「デビュー前から知ってた」みたいな類の自慢です。

 

かわいい猫がいた。高級感のある風貌。バスローブ姿でワインをくゆらすおっさんの膝の上にいそうな猫。金持ちの家にいそうな。路上では見かけないタイプだと思う。どうしたのだろう。こんなにかわいくて、冬場の厳しいストリートを生き抜けるのか心配になってしまう。どっかで飼われているのかな。

ともあれ、かわいい。
拡大して何度も見てしまう。
なんたるかわいさ。



コメント

anna さんのコメント…
コロナは感染者数を見ると少し頭打ちになって収まる気配が出てきた感じって言われてますが、緊急事態宣言があるとなんかお出かけしづらい状況です。早くコロナ収まって、おばあさんと直接会えるようになるといいですね。

私は、言葉というか、特に名前は呪文のようなものじゃないかなあと思っています。例えば私の名前が「花子」だったら、同じ人生というか経験をして今と同じ私があったかと考えると、きっと違う私、たぶん社交的で明るくて可愛いらしい私(うん。今の私と全然違うな。)がいるんだろうなと想像します。あまりこれ以上深く考えたことはありませんが、言葉の力というか、名前がもつイメージに引っ張られることはあるんじゃないかと思っています。

この画像の猫はこれだけ綺麗な毛並みしてたらきっと飼い猫ですよね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
感染者数の増減は季節によるところが大きいのかなーと思っています。わかんないけど。早くお出かけしやすくなるといいですね。気兼ねなく油断できますように。

「anna」の対義語は「花子」なんですね。おもしろいです。話題があさっての方向に飛ぶけれど『ムーたち』という榎本俊二のギャグ漫画に「デビッド」は日本でいうと「アキラ」じゃない?みたいな話があって、それを思い出しました。「チャーリー」は「マサヒコ」で、「ジェームズ」は「ツトム」だそうです。女性名でも「アリス」は「サオリ」、「エリザベス」は「レイコ」とかとか。笑

基調はギャグでも「ギャグ漫画」ってだけでは済まない深みのある作品です。「言葉は呪文」とまったくおなじ考え方もでてきます。「『いただきます』はたった一言で膨大な殺生を一瞬でチャラにできる夢のおまじないなんだ」と。『ムーたち』によると、呪いを回避するために人類はさまざまな「防呪対策」を発明してきたそうです。「いただきます」もそのひとつ。「回避」ってとこがおもしろいですね。

名前もたぶん「防呪対策」なんです。おまもり。自分を固める盾としてある。盾を忘れるとき、人は安心してやわらかくなる。そういうことなんだと思う。守っているのです。「花子」になくて、「anna」だけにあるなにかを。

猫はわたしも飼い猫だと思います。ただ完全に放置されていて、心配になりました。いいのかなー。かわいいから盗まれそう。