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日記756

「愛の反対は憎しみではなく、無関心」と聞く。これは「アガペーの反対は、エポケー」と言い換えることもできそうだと歯を磨きながら思いついた。アガペー/エポケー両者ともギリシア語に由来し、アガペーは「神の愛」「自己犠牲的な愛」、エポケーは「判断中止」「停止」などの意味をもつ。ざっくりいうと。

とはいえ意味の対照はどうでもよく、個人的な興味は音の対照にある。「ガペー」の反対は「ポケー」。そういわれてみれば、たしかにそうかもしれない。音の説得力がすごいような気がする。ような気がする……。そっちが「ガペー」なら、こっちは「ポケー」してやるぜ!みたいな。

まるで意味のないポケーっとしたことを書いている。有意味なガペーのほうに引き戻すなら、ここからわたしは以下のごとく感じた。不慣れなことばは、意味よりもまず音が先に立つ。そして意味ではなく、音から入ると「良い/悪い」の通念から距離をおける。すこし、ことばの価値的な側面から自由になれる。

「愛の反対は無関心」といえば、即座に「愛=良い/無関心=悪い」と読んでしまいがち。これを「アガペーの反対はエポケー」と言い換えると、「良い/悪い」の印象は薄まる。「ガペーの反対はポケー」なら、なおさら。ポケーもあんがい悪くないんじゃない?と思えてくる。

こうした、いわば「価値観のリセット」はあたらしいことばを身につけるとき起こりやすい。逆にいえば、ふだんづかいのことばには意味とともに感情的な通念がべっとり染みついている。しかし少数ながら、ふだんから通念の薄い乾いたことばをつかう人もいる。

 

久美子 やっぱり驚異なのよ。百合子さんのしゃべることなんかも含めて、日々新鮮な驚きがあったと思うわ。

百合子 あたしなんかは、テレビ見ながら、このアナウンサー変な顔とか、あッ、この顔キライとか、内容と関係ないことばかり言ってる女なんだから、馬鹿ばっかり言っていると思ってたと思うけどなあ。

久美子 だから、そういうことも含めて驚異なのよ。だって大ていの人は内容について、りこうぶってベチャベチャしゃべるのよ。p.101


『武田百合子 対談集』(中央公論新社)、金井美恵子・久美子と武田百合子の鼎談より。なぜか定期的に武田百合子のことを書いてしまうけれど、わたしのなかでこの人は「ふだんから通念の薄い乾いたことばをつかう人」の好例だと思う。

どこか、とても虚無的で、しかしそれがぜんぜん嫌ではなく、へんにやさしい。さらりと「日記なんて、ウソですよねえ(p.111)」といえてしまうところに、それはあらわれているのではないか。ごく自然な、乾いたウソ。

鼎談のなかでは、深沢七郎も似た「驚異」の人だと金井姉妹によって語られている。ひとつも悪びれることなく、かといって笑うでも悲しむでもなく、単に「人間は誰でも屁と同じように生まれた」と、あたかもそれが普遍の原理であるかのように書いて端然としている人物は、この人くらいなものだろう。それか水木しげる。

こんな人物に惹かれる。つまり、ガペーとポケーの人。他意のない人。金井久美子の話す「驚異」はわたしなりに言い換えると、リセットだ。とつぜんなにもない空間に人を放りこむような。異邦の人。日記なんてウソ。生まれることは屁と同じ。


百合子 あたしだって、チョット反省したりもしてるわけよ。(笑) だけど眼前のことの方が強烈だもんねえ。(笑) そうなっちゃうってわけなんだけど、犬みたいねえ。(笑) 食べたり飲んだり寝たりってばかりで、まるで犬猫ねえ。

久美子 犬猫じゃなくて、昆虫よ。(笑)

百合子 あ、昆虫と思う。あたしね、時々そう思うことがあるのね。だけど、そういうことを言うととても大げさな感じがして言わないけど、あたしって、あの、ベンジョムシみたいなんじゃないかしらって思うことあるよ。(笑)p.118

 

ここで武田百合子は一切の他意なく、そのまんま「ベンジョムシみたいなんじゃないかしら」と思っている。卑下や謙遜の意味合いはおそらくない。ベンジョムシといえば単にベンジョムシのことを指す。ベンジョムシ以外のなにものでもない。つづきを読むと「そのまんま」がわかる。

 

あなたたちは若いからわかんないかもしれないけどね、老化というのがありましてね。(笑) この老化というのはすごいのね。半年ぐらい前だけど、朝起きたら、体がこわばってるのよ。両手の指がまがったままになってカチカチになってるのね。目がさめて、アレッと思って、指をのばすんだけど、のばすとそれで平気になって普通の人になるのよね。それはね、関節の老化とか言って、みんなあるんだって、バアサンになると。そういうふうになった時、あたしはね、びっくりしちゃったね。まるで昆虫の足みたいなの。(笑) ベンジョムシというのが、便所にいるのよ、知ってる? 昔の便所にはいたのよ。その虫をしゃがんで見ていると、虫だけが感じる恐怖みたいなのがあるらしくてサアッと一杯集まって、コロコロにまるまっちゃうのよね。それから、またパアッと元に戻ったりするのよ。それを思い出したら、こりゃあ、あたしもベンジョムシになっちゃった方がいいなんて思ってね。(笑)pp.119-120


起床時に固まる指がベンジョムシの「サアッ」「コロコロ」であり、指をのばすさまがベンジョムシの「パアッ」なのだ。すばらしく具体的な比喩。便所で「虫だけが感じる恐怖みたいなの」を「しゃがんで見ている」という発言も興味深い。多くの人が「なにもない」と感じるような場所を、ひとり見つめる姿が読み取れる。

ところでわたしは、スマホの画面を高速でいじくり倒す他人の指を見ると「虫っぽいな」と思う。というか、電車の隅っこに立って人々を漠然と俯瞰しながら「人間はぜんたい虫っぽい」と、いつも感じている。みんな虫みたいに、ちょこまかしてる。

さいきん気がついたのだけど、電車内で電車内を見ている人はいない。車窓を見る人もすくない。たいていスマホ・タブレット・パソコン・本・新聞・雑誌・ゲーム機などのメディアに目を落とすか、じっと目をつぶるか。多くの人にとって電車内は「なにもない空間」なのだろう。

来日したばかりの外国人なら、めずらしがって電車内で電車内を見る。あるいは電車に初めて乗るこどもなら。しかし電車移動が日常化するとそこは「なにもない空間」となる。武田百合子はそんな日常という「なにもない空間」をひたすらに見ていた、稀有な人なんだと思う。まるで外国人のように、こどものように、犬猫のように、昆虫のように。いつだって「眼前のことの方が強烈」なのだから。

だけど、あくまで、なにもない。
そのことにも留意しつつ。

着想に対して、知識量が満たないとよく感じてしまう。なんか思いついても、これに関して言うならあれもこれも読まないと……みたいな。いろいろ書いてきたなかで、ちがうかなーと感じることも多々ある。べつにカネもらって書いてるわけでもないのに悩ましい。これはしかし、ずーっとそういうもんなのかもしれない。どっかしら満たないし、どっかしらまちがっている。仕方ない。ただ、ノリを失ってはいけない。じつはノリ以外なんにもないから。わたしも素地はガペーでポケーなのだ。なにを見ても内容と関係ないことばかり。ノリで生きてる。人間は虫っぽい。




コメント

anna さんのコメント…
ガペーとかポケーとか、言葉の中に「ぱぴぷぺぽ」が入ってて語尾を伸ばすとちょっと「ぽわん」とした感じになるんですかね。あー、でもそーでもない言葉も沢山あるかあ。「アトピー」とか「ペッパー」とかは別にぽわんとした感じじゃないや。

武田百合子さんという人は知りませんでした。wikiで調べると随筆家なんですね。
確かに、何も意識や意図もなく物事をありのままに見るのって難しいんでしょうね。通勤電車の窓から見るなんでもない風景も「寒そう~。」とか「あれなんのお店?」とかなんかの意識をもって見てますもんね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「トピー」と「ペパー」にすると、ぽわんとしてきますね。二音だと音が先行する。三音以上だと意味が立ち上がりやすいです。ポイントは音数だと思います。一音だと単なる物理音にちかいけど、二音からは音に加え生物っぽさがでてくる、気がします。三音以上は「人間のことば」って感じ。二音は人間と動物のあいだなんです。

ケー  (モノ)
ポケー (生物)
エポケー(人間)

みたいなイメージ。この記事で書いた、ガペーとポケーの人っていうのはつまり、ちょっと動物っぽさのある人のことです。有意味と無意味のあいだにいる、というか。わたしにもそういうところがあります。でも、どちらかというと人間寄りかな。武田百合子や深沢七郎はどちらかというと、動物寄りと思う。けなしているのではなく、そこに痺れるんです。人間界より、動物界ないし自然界のほうがぐっと広いですね。広くて深い。

そうそう、「ありのまま」がいちばんむずかしい。体でたとえるなら、ちからを入れるよりも脱力するほうがむずかしいんですよね。リラックスって、意識的にできない。「ポケー」は意識と無意識のあいだって感じでもありますね。「エポケー」だと、ちから入っちゃってる。「ケー」は抜きすぎなんです。笑

武田百合子は二音の領域にいる。比喩的にいえば、そういう作家だと思う。気が向いたら、お手にとってみてください。