スキップしてメイン コンテンツに移動

日記757

多摩川べり。夕暮れどき。立ち止まり、西陽を撮る人々の影が校舎に映えていた。日本には白い建物が多い。これは映画から受ける大雑把な印象で、邦画は洋画にくらべて街の色がすくない気がする。そんなことないかな。白は投影を鮮明にうつす。白の多さはつまり、スクリーンの多さでもある。そう考えるとなんとなくおもしろい。スクリーンの多い街。もちろん印象に過ぎないので、じっさいに日本の街並みが白っぽいのかどうかはわからない。

スクリーンの多い時代。これならいえる。人々が沈むお陽さまを自分用のちいさなスクリーンに投影していた。わたしはそちらに背を向けて、建物の投影を写真機に投影する。投影の投影……。なんかひねくれていて、やだな。斜に構えちゃって。と感じたので、いいわけのごとくふつうに夕陽も撮る。しかし、これはこれで恥ずかしい。あっぱれすぎやしないか。こんなに堂々として、いいのかな。いいか、きれいだったし。でもなー。……なにをしても葛藤にまみれる。


堂々として、いいのかな。こうした気分がわたしの場合、猫背気味の姿勢にそのままあらわれている。さいきんは胸を張ることにもようやく、慣れてきたと思う。深く呼吸をすること。夕陽だって富士山だって撮りゃあいい。何億枚目でもかまわない。

自分は人類全体において、何人目に生まれたのだろう。そんなことをたまに思う。人類としてのエントリーナンバー。どの時点から数えたらよいやら。しらないけれど、生まれた。どういう因果か、順番がまわってきたらしい。こうなったらもう、死ぬまで番を張るしかない。いい感じに世界を見とどけておこう。何があっても。

しかし番長よろしく堂々としすぎていても、どうか。「頭が上がらないな」って気持ちも、それなりにたいせつだろう。「足を向けて眠れない」とか「お天道さまに顔向けできない」とか。そうしたなにか、倫理観を担保してくれる自分よりおおきなものの存在も忘れてはいけない。

さいきん、森喜朗氏の失言に関連して「老害」ということばを何度か耳にした。たしかご本人も口にされていたと思う。医師の高須賀氏によると、「老害とは“他人の目をビクビクと気にしたくない”という、私達の“なりたかった姿”の果て」なのだという(なぜ人は、仕事を辞めると劣化してしまうのか。 | Books&Apps)。昨年、なんの気なしに読んでいた記事をふと思い出した。

「実は私達は誰もが老害になりたい」のだとか。これを読んでわたしは、もっとふつうのことばで「偉くなりたい」と読み替えることも可能だと思った。このほうがフラットに理解できる。偉くなりたい人は、お年寄りにかぎらない。若くして偉くなって、好き勝手しちゃう人もいる。

というか、わたしたちは誰もが「自分は偉い」と思っている。どこか、そう思いたい部分がある。つまり、自尊心がある。そしてじっさい、誰もが偉いのだと思う。老若男女かぎらず。「正しい」と言い換えてもいい。誰もがそれぞれの脈絡において、個別の「正しさ」を求めている。

森氏はおそらく、糾弾されてもなお「自分は正しい」とお思いなのではないか。ガチのお偉いさんは自己正当化に固執しがちだと、個人的な経験も加味してつくづく感じる。ガチのお偉いさんでなくとも、人があやまちを認めることは一般にむずかしい。それは、傷つくことでもあるから。ついごまかそうとしてしまう。

では「傷つく」とは、どういうことか。ぜんぜんちがう話題のようだけれど、たとえば以下に引く羽生善治氏のことばを参考に考えてみたい。作家の大崎善生氏による記事。


 将棋がコンピュータによって完全解明されてしまったら、どうするんですか。という質問に、羽生はケラケラ笑いながらこう答えた。

「そのときは桂馬が横に飛ぶとかルールを少しだけ変えればいいんです」

 その瞬間に将棋は新しい命を与えられ、なにもかもが一からやり直しになる。天才の視野にはそんなことさえ映っているのである。

 コンピュータが将棋を完全解明したら? 羽生善治三冠の回答 | マイナビニュース


ルールがひとつ変わる。そして、ぜんぶやりなおしになる。森氏にとって今回の女性蔑視発言問題は、いわば知るよしもない新ルールだったのかもしれない。これを心から認めてしまうと、自分をいちから構築しなおすハメになる。過去の発言まで意味が書き換わる。「傷つく」とは、否が応でも自分が変わってしまうことだ。それ以前のすべてが変容し、やりなおしを迫られる。

ふるまいから察するに、森氏は旧ルールの墨守を選んだ。むろん擁護しているわけではない。ルールを解さない者はプレイヤー未満である。他方で、自己変容の困難も思う。いままでの定石をみずから根本的にくつがえすような困難、それこそ偉業なのだ。生まれなおすにもひとしい、偉業だ。ちゃんと傷つくこと。ガチのお偉いさんは往々にしてルールを敷く側に自意識を位置づけており、傷つかずに済んでしまう。戯画的にいえば、「俺がルールだ」とひらきなおってしまえる。

「傷つく」とはたぶん、いったんわからなくなることでもある。羽生氏は「わかっちゃったらどうします?」との質問に、「こうすればわからなくできます」と答えている。棋士にとってはおそろしいであろうことを、「ケラケラ笑いながら」。わからなくする方法までをも提示できる。ここにわたしは一個の倫理観を見た。よって立つ机上の卑小さを忘れないこと。ルールは変わりうる。

こういったことはしかし、むかしっからいわれている。盛者必衰の理をあらわす、と。たけき者もついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ。わたしの感じる倫理観は、無常観にちかい。羽生氏は「無常」という名の活路を語っている。すべては変わりうる。そしてわたしたちは、傷つく。


ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。(親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日)

カフカ生原稿からのはじめての翻訳+評論


カフカの手紙。頭木弘樹さんのサイトより又引。学ぶことは獲得よりも、欠落と深い関係にある。欠けたる者としての自覚がなければ、なんら学ぶことはないだろう。しかし、欠けてばかりもキツいので、たまには堂々たる夕陽を抗わずに撮る。いや、じつは頻繁に撮っている。恥ずかしながら。ばかみたいに。


自然はとても勝手だ。何があっても、勝手にまわりつづける。わざわざ言い立てなくとも朝がきて、夜になる。ただ過ぎる。そこには静かな価値が眠っている。



コメント

anna さんのコメント…
最初の画像いいですね!樹の枝と夕日で映ったシルエットのコントラストが素敵です。
(よく見ると写真を撮っている本人の影?)


「すべては変わりうる。そしてわたしたちは、傷つく。」そーですよね。なんとなく変化することは必然で変化すること自体がいい事って風潮があるような気がしますが、長い時間変化しないことに価値を見出している気持ちもあります。諸行無常、盛者必衰で、変わることにそれほど意味は無くて、変わった結果よくなったかどうかですよね。単に変わっただけなら痛みを感じるだけかも。
とはいえ、森さんの「女性蔑視してごめんなさい」とあやまる言葉の中に「ほんとはごめんなさいと思ってないけど」ってのが透けて見えたのが怒りを買ったように思います。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ありがとうございます。よく見ると。晴れた日の影は微妙に青いんです。空の色がうつる。写真を撮るようになってから、はじめて気がつきました。陽射しの加減による色味の変化もおもしろいですね。

わたしの影はうつっていません。光源を逆算するとわかります。2枚目の真ん中は夕陽を撮る知らないおじさんです。堂々たる、いい構えのシルエットですね。

森さんにかぎらず、身近でも揉めごとが起こるたび「傷」や「弱さ」について考えます。多くの人は、なかなか弱くなれない。自分に非があっても、強く出ちゃう。わたしは「弱さ」でつながりたいと思う。そこにおいてこそ、人と人は手をつなげる。

でも、自他の弱さを知るってホントむずかしいです。人間が集団を形成する根拠は、なによりまず「個々の弱さ」ってところにあるのに……。人はひとりだと、おどろくほど弱っちい。そのことを忘れてしまうようです。意識は集団性に根ざした産物なのかもしれません。ひとりじゃないから、弱くなれない。

「常識」「みんな」「世間」「ふつう」などは、個の弱さを補強する常套句ですね。「弱さを知る」とは、「ひとりであることを知る」ってことです。誰もが固有の体をもつひとりだと。そこに目がいけば、もうすこしやさしくなれるかなー。なんかお坊さんの説法みたいな話ですね。笑