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日記758

知られない/知らないまま、いられる。それが「居心地のよさ」のキモだと思う。かくされたまま。平衡状態ともいえる。変化の停止。逆に、知られる/知るほどに「居心地のよさ」からは遠ざかる。学びには緊張と強迫がつきものだ。考えることは逃走の一形態でもある。人類の思考能力は迫りくるものから逃れるために発展を遂げたのではないか。始原の時から、ヒトはひたすら逃げつづけているのだ。しらんけど!

そうそう。この「しらんけど!」が居心地をつくる。ゆるみ。緩衝。話の末尾に多用されるこのことばは、語のつらなりを落ち着けるための「一時停止」を意味している。楽譜でいえば休符記号。急に「人類」だなんて、おいおい。早まるな。ちょっと休もう。

連関がほどかれると、ほっとする。仕事を終えて、家に帰るときのように。ヒトは関係性を欲する生き物だけれど、無関係性もおなじくらい欲している。すくなくとも、わたしはそう。四六時中、一貫した自己であることを強いられると、壊れてしまう。どこかで連続性を断ち切らなくては。しばし、眠りに就かなくては。

わたしたちはぜんぜん関係がない。ひとりだ。そこにこそ息を継げる余地がある。そしてまた日々が始まる。ひとりのわたしなんて、存在しなかったかのように。じっさい存在しないのだと思う。いや正確には、存在を認められない。しかし存在しつづけている。ただひとりでいるとは、そういうことだ。未確認生物のように佇むこと。なにもわからず、途方に暮れること。睡眠と覚醒の、死と生の隔たりさえも曖昧に。


 ところで、この男の背中は寝ているのだ。わたしの前を同じ歩調で歩いている彼はすっかり眠っている。無意識に進み、無意識に生きている。誰もが眠っているので、この男も眠っているのだ。人生はすべて夢だ。自分が何をしているのか知っている者は一人もいず、自分が何を望んでいるのか知っている者は一人もいず、自分が何を知っているのか知っている者は一人もいない。われわれは運命の永遠の子供であり人生を寝て過ごしている。したがって、このような感覚で考えると、あらゆる子供っぽい人間に、すべての眠っている社会生活に、誰にでも、何にでも巨大で限りないほのぼのとしたものを感じる。pp.271-272

 

フェルナンド・ペソア『不安の書【増補版】』(高橋都彦 訳、彩流社、2019)より。 「眠っているときは誰でも再び子供に帰る」とペソアは書く。いくつになってもわたしたちはこどもの時間を生活のうちに抱え込んでいる。「大人」はフリだと思う。うまくフリができるようになること。「役」ともいえる。社会という虚構の舞台で、それぞれの役を担う。こどもにはまだ役名がない。まどろむ時間の、わたしたちにもまた。

さいきん、たしか中学生くらいのころに観た映画、『ライフ・イズ・ビューティフル』のことをなぜだか思い出した。いちど観たきりだけれど、鮮烈に記憶している。ナチス・ドイツの強制収容所に送られた親子の物語だった。父は子に向かって言う。

 

これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れるんだ」 
(by Wikipedia

 

これが大人たる者の役目だと、わたしは思う。虚構の役を担うこと。なにもわからない、自分の内なるこどもに言って聞かせる。大丈夫、心配はない。そうやって、半身をあやすように生きている。ことばを欲しているのはいつも、こどもの自分だ。


言葉を最も切実に必要としていたのは、年を経た今のようには言葉を持たず、今ほどにはそれを遣うことができなかった、子どもの頃のことではなかったか。p.10

 

日和聡子のエッセイ集『この世にて』(青土社、2020)の一文。そうだった。「子どもの頃」における言語的な不全感が、わたしの場合、いまもなお尾を引いているのかもしれない。ことばを必要とする弱さ。追いすがる泣声の残響を翻訳している。こどもはことばを知らない。そして眠りに親しい。彼は夢の触媒となる。

『ライフ・イズ・ビューティフル』を思い出したのはたぶん、立場の変化を実感したせいだ。大人になった。どうしようもなく。この先、これにかぎらず時限装置のように効いてくる物語はいくつもあるのだろう。ふとしたときに、過去の伏線が回収される。すべての歴史は伏線だと思う。世界のあらゆる記憶は生の変化を照らす伏線になりうる。

 

 言葉っていうのは、自分ひとりのものではないんです。今の時代だけのものでもない。大勢の他人の、これまでに亡くなった人も含めた長い長い歴史からできあがったもので、自分の勝手にならない代わりに、自分が追いつめられたときに支えになってくれる。p.119


古井由吉『書く、読む、生きる』(草思社、2020)の、オビにも採用されているお話。中学生に向けた講演の起こしかな。『問いかける教室――13歳からの大学授業』(水曜社、2013)からの再録という。

ことばは死者の命脈をつなぐ、おそるべきものだ。古井由吉も昨年、亡くなった。しかし、なお語っている。意味の伝達をやめない。いつまでも、やめてくれない。死者たちから継がれたことばを、わたしは生きながらただ、足したり引いたりして過ごす。同じ轍を踏んだり、逸れたり。忘れたり、忘れたり。

書記は、「なくなる」を見越した行為だと思う。離れるためにある。別れの手続き。忘却の手引。時間の補助輪。大袈裟に表現するなら、すこしだけ死ぬことだ。あるいは、歴史の繋留点。あったこと。ありえたかもしれなかったこと。いずれにしろ過去に依る。


 書くということはなにかと言うと、もう、ぎりぎり、記すということだ、記録することである、っていうぐらいに受けとめます。伝える、ってことはもちろんある。しかし、伝えるという役割の主要な担い手であるのだろうか、書くということは。やっぱり主戦投手は、口で話し、耳で聞くことでしょ。書くのは補助的な手段ですよ。記憶にとどめるとか、確認するとかね、証拠にするとか、本来そうなんですね。 
『書く、読む、生きる』p.28


書くのは補助的な手段。ここが重要だと感じた。いまどき勘違いしそうになるけれど、そもそもメインの道具ではない。読むことも。きっと、一個の弱さにもとづく。迷うとき、現在地から遊離した空白にことばが浮かび上がり、ひもとかれる。散逸した時間を、たばねなおすように。

何事も加減がたいせつだ。あまり知ろうとしては、眠れなくなる。あたりまえで、凡庸な話。幸福は忘却のなかにあり、記憶のなかにはない。ここに誰かがいた。しばらくして、いなくなった。その繰り返しで世はまわる。一日だって、その繰り返しだ。昼と夜のせわしない明滅。浮かんだり沈んだり。思い出したり忘れたり。たばねたりほどいたり。やがて消えるまで。


またギョウザやラーメンを食べさせるチェーン店でカウンター席にいる客たちを眺めている。若い男の子や小太りのおばさんなんかが、皆うつむいてひたすら口を動かし、どんぶりと自分のつくりだす世界に一心になっている。そういう無防備な姿がいい。それならば、どんな人でもその間だけは愛せると思うのだ。

 

井坂洋子『黒猫のひたい』(幻戯書房、2014)より。なんとなく、ペソアと似ている。「眠り」に見出される、「巨大で限りないほのぼのとしたもの」。食事中の人々を眺め、「どんな人でもその間だけは愛せると思う」こと。共通する部分は、生理的な無防備さかな。

わたしの感覚だと、虫っぽさだ。
寝ている人も、食べている人も、虫っぽくて好き。

 

 

コメント

anna さんのコメント…
私が歩くこともしゃべることもできなかった1歳前後だったころの話しだと思うんですが、一緒の部屋でよく日向ぼっこしてた猫の記憶があります。後で母親に聞いたところでは、おじいちゃん猫で私の子守みたいにずっと見てくれてたってことでした。その猫とは不思議なんですがその時はなんか片言の言葉でコミュニケーション取れてたように思うんです。「ちがーう」とか「そっちだめ」とか「うるさい」とか猫に言われて「ごめんなさい」って私は謝ってたように思うんです。(言うこと聞かないと爪なしのネコパンチが飛んでくる。)もう少し大きくなったら「にゃ~」としか聞こえなくなってしまいましたが、あの時のネコ語を言葉で書き留められたら人間と猫の関係が歴史的に変わったかもしれないですが、失われてしまいました。
と、コメント書いた後で「あ。本文の文章の意味からかなりずれちゃったかもー。」と思いました。すいませーん。
nagata_tetsurou さんの投稿…
映画『魔女の宅急便』終盤で、黒猫のジジがしゃべらなくなりますね。「にゃ~」としか聞こえなくなる。自分の内側にあったものが外側だとわかる。わかって、わかれる。そうやってすこしずつ人は「大人になる」のだと思います。ちいさい頃は神さまがいて、不思議に夢をかなえてくれた。カーテンをひらいて静かな木漏れ日のやさしさに包まれたなら、ふたたび猫がしゃべるのかもしれません。大人になっても奇跡は起こるよ。ユーミンが歌ってる。

まだannaさんの内側には、しゃべる猫がいます。きっと。私は私、猫は猫。ではなく、私が猫だった頃の、あるいは猫が私だった頃の未分化な感覚を眠りはもたらしてくれる。これは「眠っているときは誰でも再び子供に帰る」という詩人のことばにつうじる話です。ペソアの「眠り」と、ユーミンの「やさしさ」は同じ性質なのかもしれない。大人になっても、わたしたちは思うほどわかれていなかった。

ずれていそうで、ずれていない。ずれていたとしても、どこかの支流でつながります。僅かでも。大丈夫です。わかれていそうでいて、じつはそんなにわかれていない。たくさんのことがわからないままです。わたしも1歳の頃なら、猫とお話ができました。たぶんね。夢のなかなら、いまも。