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日記759

何を見てもなにかを思い出す。すべての記憶は涙で濡れている。つまり何を見ても、涙で濡れている。忘れたくても思い出せない。

「忘れたい」と「思い出せない」のあいだで挟み撃ちになる。このことばは、漫才コンビ「唄子・啓助」の鳳啓助による「君のことは忘れようにも思い出せない」というギャグにちなむ。バカボンのパパの発言としても有名みたいだ。

意味のとれない「ボケ」のフレーズで、たしかにすっきりせず、むずがゆい。記憶とはしかし、そのようなものである気もする。始まりからぼやけている。忘れたい。思い出せない。強烈な記憶であればあるほど、その極から極へとゆらぎつづける。なおりかけの擦過傷みたいに、触れてはぶり返し。

体はつねにゆらぎを宿している。このごろベッドが経年劣化し、体のわずかな震えできしむようになった。大袈裟ではなく、心臓の拍動ひとつできしむ。最初は何が原因の音かわからず、ちょっとしたポルターガイストかと思った。寝たり起きたりを繰り返してようやく「心臓だ」と気がつく。生きている以上、体は絶え間なく動いているのだった。

具体的な体のゆらぎと、抽象的な記憶のゆらぎは通じているようにも思う。そこから波及的に生じる「きしみ」も。言語とは、ゆらぎのうちに浮揚するきしみだ。その淵源には傷がある。すこしの振動で傷んだ箇所がきしむように、ことばが話される。

無意識裡に処理しきれない事象が意識にあらわれる、と人工知能開発・研究者の三宅陽一郎さんがおっしゃっていた。なんらかのひっかかりとして意識がつくられる。ぎしぎし。無音のゆらぎが無意識で、音をたてるきしみが意識。みたいなイメージが浮かぶ。

 

(……)言葉というのは正しいから記憶されるのではなくて、その言葉を承服しかね、それを受容するときのきしみが伴われることでリアリティが生まれるものなのだ。p.198


保坂和志『〈私〉という演算』(新書館)の一節。わたしたちは、ひとつの「きしみ」として世界を見ている。そんな想像をめぐらせる。忘れたくても思い出せない。

有名無名を問わず、「この人はもしかすると自分と似た感じのことを考えているのではないか」と思われる人物がいて、小説家の保坂和志はそんなひとり。もちろん部分的な相似であり、自分が保坂和志と同等だといいたいわけではない。そんなわけがない。相似というより、デジャヴみたいな勘違いかもしれない。ふしぎな既視感にとらわれる。初めてたどる道筋なのに、いつか通り過ぎたような。そんなわけがないのに。

ここにも腑に落ちない「きしみ」がある。見知らぬ他人の過去を、そっくり自分のものとして思い出すかのごとき錯誤。いや、おそらく文字を読むこと全般にそのような錯誤はひそんでいる。書き手によってその強弱がちがう。度合いの問題なのだろう。「読める/読めない」は「勘違いできる/できない」とも換言できる。

冒頭「何を見ても~」を書いた日は3月11日。つづきを足したり引いたりしていたら、1週間が経過した。きょうは3月18日。映画の感想を書こうかなーと思いながら、気が向かぬまま過ぎる。『花束みたいな恋をした』という、ふやけた題名の映画を観た。大学時代に知り合い、付き合うことになった男女が社会人になってお別れする、2015年から2020年までの5年間を描いた作品。主演は有村架純と菅田将暉。役名は八谷絹と山音麦。ありがちな、J-POPの歌詞みたいなお話。SMAPの「たいせつ」が胸に沁みるお話。

映画を観る前にいくつかのレビューを読んで、「ノームコア映画」というフレーズが浮かんだ。一時代における、究極のふつう形。だからこそ多くの人に刺さる。鑑賞後の感想も変わらなかった。よくある話、なんだけど1回きりの5年間。別れのシーンはいちばん象徴的だったと思う。自分たちの似姿を見て、わたしたちはどうしようもなく1回だったね、と悟る。もうやりなおせない。ふたりは2015年から2020年までの5年間を、1回きりの根付かぬ「花束みたいな恋」として終える。これもたぶん、ありがちな感想。

よくある話、なんだけど1回きり。「ありふれた苦悩にまみれた一生/でもそこじゃあんたがマジで大将」とラッパーの宇多丸さんが歌っていたように、人生自体がそんなものである。たかが知れているし、世の中そんな感動的にできちゃいない。だけど、うっかり感動しちゃうことも多い。そういえば自分、マジで大将だった。忘れてた。

さいきん読んだ宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店)の、こんな引用を思い出す。くらもちふさこ『おしゃべり階段』より、又引。

 

 受験生の飛び降り自殺のニュースをテレビで見て、
 「ま、わかるが、こんなことみんなも経験することだしなぁ」
 とつぶやく父に、加南は心の中でこう答える。

 でもパパ――
 あたしたち当人にとっては
 「こんなこと」じゃない
 パパはおとなで受験よりも苦しい経験をしてるから
 「こんなこと」になるのかもしれない
 あたしが中学の時
 死ぬほどいやだった髪の悩みも
 今はもう忘れかけているのと同じ
 いつだって今の悩みがいちばん
 あの幼い日に悩んだ重さは その内容はちがっても
 今 悩んでる重さとほとんどちがわないはずなの (pp.15-16)


外側から俯瞰すればありふれた「こんなこと」でも、渦中の当人にとっては「こんなこと」では済まない。これはありとあらゆる事柄に当てはまる構図だ。人は誰もが、べつべつの状況を生きている。それを「みんな」や「ふつう」で雑に塗り込めると、何気ないひとことでも暴力性を帯びてしまう。

そういえば『〈私〉という演算』にも、こんなくだりがあった。

 

十四歳の頃漠然と持ちつづけていた気分あるいは気分以前の心の状態を、今では感傷的な場面で思い出すだけだけれど、あの頃それは、「感傷」というような形を持った一つの気持ちとして、馴致できているものではなかった。
 それははじめて自分として世界を感じるようになったということなのかもしれない。中学二年の夏休み、八月があと二、三日で終わろうとしている朝、昨日までと違ってずいぶん涼しいと思いながら芝生の葉先についた露をしばらく(たぶん数分間)見ていたときのことをぼくはずっと忘れていなくて、きっとあのときがはじめて自分として世界を感じたときだったのだと思う。p.92


葉先の露を見ていた14歳の記憶。まさに「こんなこと」なエピソードだけど、きっと「こんなこと」ではない。「はじめて」はなんであれ、たいへんなことだ。そして『花束~』もまた、「こんなこと」であると同時にたいへんな「はじめて」の心情を描いた映画なのだと、わたしは感じた。


「アンドロイドがはじめて、自分に心が生まれたのを感じた瞬間」というフレーズを聞くと、ほとんどの人がその状況にいったん「感傷」という言葉を当てるだろうし、聞いた人自身の心にも「感傷」と呼びうる何かが生まれるだろうけれど、アンドロイド自身に起こっていることは感傷ではない。たぶん苦痛として大別されるようなものだろう。

『〈私〉という演算』p.93


「ふつう」の視野は俯瞰的で、俯瞰は過去を参照する思い出の視野でもある。記憶による仮構が「みんな」や「ふつう」の距離感をつくり出す。しかしわたしたちは最初から思い出のなかで生きているわけではない。距離なんかとれやしない現在地がどこまでもつきまとう。絶えず「はじめて」の時間にいる。と同時に、きのうと同じようにある、過去としての現在を生きてもいる。どちらかといえば取るに足らない「こんなこと」の雑で穏当な世界にこそ、まいにちの営みがある。「いま」という、おどろくべき時間はもしかすると、厭わしい苦痛なのかもしれない。

現在地の共有とは、そこで生じている痛みの共有なのではないか。

『花束~』で印象的な(そして、ありがちな)すれちがいのシーンがある。行きつけのパン屋さんが閉店したことを知った絹は、仕事中の麦にLINEを送る。麦の返事は「駅前で買えば」みたいな内容だったと思う。絹はそうではなく、かつてあなたと頬張った焼きそばパンの、あのパン屋さんがなくなったことを伝えていたのに。

俗に「共感してほしい女性、問題解決をしたがる男性」という二分法がある。これは性差より、状況の差と考えたほうが的確だとわたしは思う。たぶん「仕事モード」か否かが要因として大きい。この見立ては前掲書『傷を愛せるか』からの受け売りだけれど、宮地さんと同じくわたしも前々からそう感じていた。


 仕事をするということは、積み上げられた課題をこなしていくことである。もちろん人間関係は大切だが、それは課題遂行のためであって、人間関係を維持すること自体が目的ではない。「仕事モード」で必要なのは、効率的であること、論理的であること、自分の有能性を示し、競争に勝つことなどである。そのためには、冷静であること、個人的事情はもち出さないことなども求められやすい。「気持ちをわかりあおうとすること」は、それが仕事の一部である場合(カウンセリングなど)を除いて、必要でないどころか邪魔になることも多い。女性だって、気持ちをわかってもらうことを主目的として仕事上のコミュニケーションはしないだろう。
 「仕事モード」とは、いい替えれば公の場にいるということでもある。公の場も職場も、たいていは男性仕様でできている。それはこれまで女性がいなかったからだけでなく、公的な場でうまく機能するような行動規範が男性に内在化され、逆に「男らしさ」を形づくっていったからだともいえるだろう。pp.107-108

 

「仕事モード」は目標を定めた積み上げ式の未来志向。そして「気持ちをわかりあおうとすること」は逆に、過去をちくちく縫い合わせるような作業だと思う。パン屋の閉店をめぐるコミュニケーションのズレはつまり、ふたりの時間感覚のズレでもあった。過去の思い出を参照した絹と、未来の行動を参照した麦。状況によって人は時間の参照軸を変える。

 

 

ふたりのズレは、ソンタグのいう「心の傾注(アテンション)」のズレでもあった。仕事モードの傾注と、プライベートモードの傾注とでは、わたしもぜんぜんちがう人になる。仕事モードの文化と、プライベートモードの文化にかなりギャップがあるせいだろう……。

絹と麦のあいだにも途中から文化的なギャップが生まれる。お互いがどこにいるのかわからなくなってしまう。傾注の共有地(=文化)を見失う。麦は「結婚」という未来に目標を定めて仕切り直そうとするも、絹の傾注はその位置になかった。気持ちを探ることは、それぞれの眼差す時間を探ることでもある。具体的な時間に加え、心理的な時間感覚も解きほぐし、すり合わせること。

端的に要するなら、麦は未来の絹を夢見て、絹は過去の麦を夢見ていた。そんなすれちがいだったと思う。視座を異にするふたりがようやく同じ時間の見地に立ち、痛みを共有できたのは、別れを決めるときだった。ふたたび「はじめて」同士になる。そこでやっと足並みが揃い、同棲していた家を片付けるまでの数ヶ月、ふたりで好きなものを楽しめる時間ができた。

恋愛にかぎらず人間関係をこじらせたとき、修復しようとすればするほどかえって解体を促してしまう悪循環におちいることがある。「修復」がどんどん過剰になって、ついには破綻する。これもよくある話で、わたしも経験した。まず原因となった「穴」を共有できていなければ修復なんてできっこない。絹と麦も、お互いの「穴」を知ろうとしなかった。やさしいふたりだった。「はじめて」は、なんでも痛い。やさしさでさえ。うーん。

つい「問題解決」を考えちゃってる気がする。いまは仕事モードじゃないはずなのに。いや、ここは「公の場」ともいえるか。そこまで私的ではない。けど公的でもない。ほどほどに私的で、ほどほどに公的。適度なあわいの場、ゆらいできしむ、あわいの文章であるといい。



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