スキップしてメイン コンテンツに移動

760 

 

電車移動が常態化すると、電車内は暇つぶしの場所になる。電車内で電車内を眺める人はあまりいない。ほとんどの人は、手にしたものに目を落とす。スマホだったり、本だったり、なにかの資料だったり。思い思いのものを見ている。そうやって、電車内にいないような素振りを見せる。儀礼的無関心、というか。電車内で存在感を発揮する者は、こどもや病者などの周縁的な人々にかぎられる。

目を閉じて、まぶたの裏を凝視する人もたぶん、そういない。これに似ている。人が目を閉じる目的は、まぶたの裏を見るためではない。電車に乗る目的も、ただ電車に乗るためではない。電車内は、まぶたの裏。空白に映じる物思いのとき。

映画館もまた、「まぶたの裏」に似ている。純粋に映画のみと対峙する人はあまりいないのではないか。多くの人はその映画にまつわる、自他の記憶を観たがる。『花束みたいな恋をした』はある種の人々の記憶を刺激する。いわば「暇がつぶせる」映画なのだろう。それはそれとして素晴らしい。

だから逆に、まぶたの裏を凝視したくて映画館へ行く向きには響かないのかもしれない。「映画狂人」のような。あるいは暇つぶしの材料を見出せなかった場合。「ノームコア映画」と前回の記事に書いたように、そこにあるのはきれいな無地の白シャツだった。

「ノームコア」は“normal”と“hardcore”をかけあわせたファッション用語で、めちゃんこシンプルな服装のことを指す。究極のふつう。そんなひとつの「こだわり」。無個性で、矛盾を孕んだ「こだわり」。「ノームコア」という文脈を外せば「こだわり」なんて見出せない「なんでもいいような服装」ともとれる。

「ふつう」はつねに矛盾とともにある概念で、そこがおもしろいとわたしは思う。どこにもないようで、どこにでもある。包摂的であり、排除的である。ふつうでありたくないようで、ふつうに焦がれる。個体としてあり同時に集団としてある。そうした人間世界の一筋縄ではいかない諸相に興味がある。わたしたちは「ひとり」と「みんな」のグラデーション内で色を変える、カメレオンみたいな存在だ。

「ふつう」はさながら、目が覚める瞬間にとり逃した夢のよう。「目覚めるといつも私がいて遺憾」という池田澄子の俳句を思い出す。いびつな一個の「私」が存在するかぎり、完璧な「ふつう」には到達できない。完璧な絶望が存在しないようにね。笑

なんの話だっけ。



そうそう、『花束~』の舞台でもある多摩川の写真。気に入っているので、映画の話題に乗じてもっかい載せたい。ひとりで何時間も歩いて、一銭にもならない写真を撮りまくって、ばかみたいだなと思う。でも、これがいまのわたしの仕事なんかなーとも思う。一銭にもならんけど。「稼ぎ」とはべつのね。友人にそう話したら、「ほんとうに暇じゃないとできないよね」と笑われた。そうだね。

 

 









 

 

 追記:「個体としてあり同時に集団としてある」と書いたけど、「同時に」ではないかもしれない。まず人の集まりがあって、すこし遅れて「個」が立ち上がる。「私」とはたぶん、遅れてやってくるざわめきのような、なめらかにいかないきしみのようなもの。

 

 

 

コメント

anna さんのコメント…
この何日間かコメントが書き込めなくてなんでだろと思ってたんですが、日記作成中だったんですね。

「花束みたいな恋をした」って映画知らなかったんですが、こんなにいろいろ考えることが出てくるなら一度見に行ってみようかなと興味が湧いてきました。でもあんまり京都でやってないような。

nagata_tetsurou さんの投稿…
この何日間かコメントがなくて、すこし気がかりでした。すこしですよ。なんで書き込めなかったのだろう。「作成中」が原因ではないと思います。書き途中の記事は前々から無数にあるので(ってもうぜんぜん「日記」じゃないですね笑)。設定の変更もしていません。原因不明ですね。

映画ね、わたしはなんでもかんでもいろいろ考えがちなタイプなので、その点では参考にならないかもしれません。たぶん、なんも考えなくても楽しめます。脚本は「東京ラブストーリー」をはじめ、多くの有名作品を手掛けている坂元裕二。監督はドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の演出も手掛けた土井裕泰。こう紹介すると、間口がぐっと広くなりますね。長文の感想より、こっちのほうがよほど人を惹きつける。

わたしの場合、なにを見ても結局いつもと同じ問いをぐるぐるさせているだけなのです。おんなじことばかり考えている。人間とは何か、みたいな。笑