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日記761

 われわれは自分が unique one(世界の中でただ一つ)であると同時に one of them(大勢の中の一人)であることを「知って」いる。通常は前者のほうが後で、これを「唯我論的自己の発見」とし十歳前後に多いとする。後者のほうが先で、通常、「こころの理論」すなわち自分以外の人間には自分と相似たこころ(知情意)のあることの発見といわれている。だから、カトリックの新トマス学派などは「自己は他者からの贈物である」というのであろう。この二つを論理的に統合することはできない。論理的とは言語的表現によってということである。つまり、この双方は論理的に一方から他方を導き出せるものではなく、言語的に関係を表現できない。pp.260-261

 

中井久夫『統合失調症の有為転変』(みすず書房、2013)より。

前回の記事から自己引用しよう。

 

「ふつう」はつねに矛盾とともにある概念で、そこがおもしろいとわたしは思う。どこにもないようで、どこにでもある。包摂的であり、排除的である。ふつうでありたくないようで、ふつうに焦がれる。個体としてあり同時に集団としてある。そうした人間世界の一筋縄ではいかない諸相に興味がある。わたしたちは「ひとり」と「みんな」のグラデーション内で色を変える、カメレオンみたいな存在だ。

 

「ひとり」と「みんな」はそのまま、中井久夫の書く「unique one」と「one of them」につうじる。わたしたちはこのふたつの「論理的に統合することはできない」矛盾とともにある。

さらに追記として、こう記した。

 

「個体としてあり同時に集団としてある」と書いたけど、「同時に」ではないかもしれない。まず人の集まりがあって、すこし遅れて「個」が立ち上がる。「私」とはたぶん、遅れてやってくるざわめきのような、なめらかにいかないきしみのようなもの。

 

これは「こころの理論(one of them)」が先行し、「唯我論的自己の発見(unique one)」が十歳前後に遅れて生じる、とされている言説につながる。自分の感覚的な記述に、ひとつ裏付けが見つかったようでうれしい。とっくに考え尽くされていることを、周回遅れでゼエゼエ追っかけているだけともいえる。

「ふつう」は論理の外にある。なんだかぬらぬらした概念だ。ゆえに理屈っぽい人は「ふつう」や、それに類する「常識」「世間」「みんな」といった大雑把なくくり方に違和感を抱きがちになる。その感受性はおそらく「唯我論的自己」にもとづく。論理的な思考は第一に「個」を基点とする視座から育まれるのだろう。ロジックは孤独への導き。やり過ぎると生きづらくなる。孤独だからロジカルになるのか、ロジカルだから孤独になるのか……。たぶん、どちらの方向もありうる。

 
論を詰めることは、「信」をなげうつことにつながるのだと思う。「ふつう」をなげうつ、といってもいい。「ふつう」とは信心の語らいなのだ。それぞれがそれぞれに信じてやまないことを「ふつうこうだ」と語っている。そこに理屈はない。あるいは、そこに理屈の限界がある。宗教とは「理屈の外側にあるもの」と佐藤優が話していた。

さいきん岩波現代文庫に入った、永井均の『哲おじさんと学くん』にこんなくだりがある。対話形式で記述された哲学の本。引用は学くんの嘆き。


なぜ僕がここにこのように存在しているのか。いったい何のために生きているのか。そういう根本的なところが全く分からないのに、誰もそういうことは教えてくれないで、今のうちに英語をしっかり勉強しておくと将来役に立つぞ、なんてわけの分からないことばかり言われるんだから。まあ、みんなはわけが分かるらしいけどね。僕一人だけ、僕にはわけが分からない教義を信じ込んでいる異教徒の集団に紛れ込んでしまったみたいなんだ。pp.10-11

 

個人的に馴染み深い「わからなさ」だ。日本人として日本で生きているはずなのに、わけがわからない異文化に接している感覚。休む間もなく絶えず考えることを強いられてしまうような。

「世の中には、自分が直接感じ取った問題を自分で考えていくことができる人が驚くほど少ない(p.11)」と哲おじさんはいう。思考はまず強いられて始まるものだとわたしは感じる。集団から放たれる斥力を痛感したとき「自分で考えていくこと」がドライヴされるのではないか。「大勢の中の一人」から、決定的にはぐれてしまったとき。すくなくともわたしは、最初から自らすすんで考えはじめたわけではなかった。「僕一人だけ」という学くんの発言からも排斥感が読み取れる。

 

だれの目にもみえていることを、神よ、哲学者にわからせたまえ。p.169

 

ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』(丘沢静也 訳、青土社、1988)の一行。ここにも斥力の痛感がよくあらわれている。だれの目にもみえていることを知りたい。あたりまえの、ごくふつうの、みんながやりこなしていることを。そこがいちばんわからない。わたしたちはどうやって歩いて、どうやって話して、どうやって生きているのか。

人々にまみれながら、人々に織り込まれていないほころびとしての自己と格闘しつづけること。それが「自分が直接感じ取った問題を自分で考えていくこと」なのだと思う。つくろいきれないほころびをひらき、ひとりの織物を編み上げるみたいにことばを綴る。孤独な試みかもしれないが、ほころびはもともと人々の中で生じたのだから、べつべつの素材ではない。かならず人々のもとへつながるはず。と信じたい。そう、これもまた「信」の変種にほかならなかった。なげうってなど、いなかった。

 

キリスト教信仰が育てた誠実さが最後には神など実は存在しないことを誠実に認めることを強いた、というニーチェという哲学者の有名な言葉があるが、それが哲学なのだ。ポイントは宗教を否定するその誠実さそのものは依然として宗教的な誠実さだというところにある。哲学徒は、理のあるところにのみ従い抜くというこの信仰を決して手放さないのだ。p.18

 

理も信仰のひとつだと哲おじさんはいう。哲学者は理を尽くす。それを「ふつう」とする。わたしは哲学徒ではない。いや、わかんないな……。自分にとっての「ふつう」とは何なのだろう。わたしは何を信じているのだろう。

「ふつう」を探ることにはきっと、治療的な効果がある。「そうすることが救いになる」と哲おじさんは哲学について語っていた。それが彼の「ふつう」なのだ。ひとつの、差異の埋め方なのかもしれない。ふたたび中井久夫の前掲書に戻ると、治療とは「非差異化」である、とあった。

 

 私の考えでは、病理学は精神病理学であろうと身体病理学であろうと、差異に注目し、差異を強調する。これに対して、そもそも治療とは「非差異化」である。共通性に注目し、特異的なものを相対化し、非特異化する。おそらく、精神療法における解釈というものも、相対化、共通化、非特異化であるはずであろう。薬物療法も、療法であるからには、おそらく同じことであろう。p.237

 

「共通性に注目し、特異的なものを相対化し、非特異化する」。平たく言い換えると、ひとりになり過ぎた部分をみんなのもとへ接続しなおす。治療者はいわば、その連結項として機能する。連結の仕方はひとりひとりちがう。そこをつかむには、個々の生に肉迫しなければならない。

個別具体的な「ふつう」を構築する手助け。それは医者だけが為す仕事ではない。ラッパーのZORNは「洗濯物干すのもHIPHOP」とリリックに書いた。ZORNにとっての「ふつう」はそこにあり、そこにこそ「みんな」がいた。そこにしかいなかった。それがHIPHOPだった。




誰かの幸を願えたら
きっともうこれ以上はねぇんだな


ZORNがHIPHOPによって誰かの幸を願うように、医者は臨床によって、哲学者は哲学によって誰かの幸を願う。そこになにか、救いがあると信じて。日常はそうしたひとりひとりの願いでつくられている。「ひとり」と「みんな」は論理ではなく、願いや信心の飛躍によってしか接点をもちえない。


 あきらめがわたしを喰い破りそうになるとき、問いがわたしを心配そうにのぞきこむ。わからないと投げ出したくなったり、早急に答えを決め込みたくなったりしたとき、まだわからない、まだわからないよ、と問いは言う。

 そして問いは、年も所属も時代も超えて、見知らぬわたしたちをつなぎとめてもくれる。労働に疲れ、ぐったりと身体を電車の座席にあずけているとき、ふと13歳の少年の問いが目の前に立っていることに気がつく。彼とはたった一度しか会わなくても、こうして同じ月を見るように、同じ問いを考えることができる。 
 だから、たとえ問いに打ちひしがれても、それでも問いと共に生きつづけることを、わたしは哲学と呼びたい。哲学は、慣れ親しんでいる世界を粉砕し、驚きをあたえ、生を不安にさせて役目を終えるのではない。息切れをして、地上に倒れてもいい。心細くなって、頭を抱えてもいい。それでも、人々と、問いと共に生きることをやめないことだ。

水中の哲学者たち  永井玲衣


ここにも願いがある。まだわからない問いに「みんな」を見出したい。わたしもこんなものを書きながら、問いの中に「みんな」を探している気がする。誰が読むんだこれ?と、いぶかりつつ。やはり、哲学徒にちかいのかもしれない。でも、それだけではない。

音楽の中に「みんな」を探したり、写真の中に「みんな」を探したり、詩の中や、おしゃべりの中に「みんな」を探したりもする。あるいは、向かいのホーム。路地裏の窓。そんなとこにいるはずもないのに。

なんでもいい。

人間はうっかり、混同を生き抜いてしまう。
わたしはわたしを取り違える。




コメント

anna さんのコメント…
うーん、何回も読み直してみましたが私の頭では難解です。
「普通」ってそれぞれの信じるものってことはなんとなくわかるんですが、でも、音楽や絵を見て「美しい」とか思う感覚って、まあ、人それぞれの部分もあるんですが、なんとなく「大きい」、「小さい」とか「長い」、「短い」と同じように「美しい」、「美しくない」とかの絶対的な尺度もあるように思います。そう思うと「普通」と「普通でない」とかも個の感性によらない絶対的な尺度での評価もあるように思うんですが・・・。言ってることが文章の趣旨とずれてたらすいません。

今日は私はお休みなので、賀茂川沿いに散歩にでかけようかと。
桜の花も散っちゃったかなあ。まあ花粉症なんで咲いてると鼻ぐずぐずになるんですか。
nagata_tetsurou さんの投稿…
わたしには、「絶対」へのあこがれがあります。ほかにも永遠とか、普遍とか、全体とかなんかそういう類のやつがわかんなくて好きです。annaさんの感受性はその点で力強くて、すばらしい。わたしこそずれている(というより、飛んでいる)かもしれませんが、とても自然に「神さまはいるんとちがうの?」とおっしゃっているように感じます。

わかっていないのはいつも、わたしのほうなのです。記事中に挙げた、永井均の『哲おじさんと学くん』(岩波現代文庫)をぜひ読んでほしいと思う。副題は「世の中では隠されているいちばん大切なことについて」。哲学者はわからず屋です。ピンとこなくても「こんな問いを抱きつづける人がいる」と知るだけで、きっとじゅうぶんに価値があります。

そうだ、ちょうどきょう、哲学者の山口尚さんが「哲学の問題が理解できない、とはどういう事態か?」という記事をSNSに上げていました。関係すると思うので、参考としてURLを載せておきます。

https://note.com/free_will/n/n0865fe7df3b8

annaさんのおっしゃる「絶対的な尺度」をもうすこし飛躍なく言い換えると、「わたしたちは同じ世界で生きているよね」ってことではないでしょうか。その確信は心強くて、うれしい。みんなが同じ世界で生きているのか、それはほんとうか、心もとないから。笑

もっと単純に「目にうつるものがあるよね」と、そんな「絶対」なのかもしれない。人と人は、うつし合って生きています。「個の感性によらない」まなざしも含めて。春の賀茂川、いかがでしたでしょうか。賀茂川と鴨川はどうちがうのか、調べてしまいましたよ。京都の人はふつうに使い分けるのかなー。
anna さんのコメント…
神様っていうか、大きい小さいがこっちが何cmだから大きくてこっちは何cmだから小さいってのは絶対的な尺度での判定だと思うんですけど、美しいって数値化できないから比較できないだけでやっぱり絶対的な判定があるんじゃないかなあって意味で書きました。でも、そんなに深く考えてるわけじゃないんで。
賀茂川散歩は花粉症でくしゃみ連発で途中で切り上げました。桜ももう葉桜になってましたしね。
賀茂川と鴨川の違いは、京都生まれじゃない九州生まれの私は詳しくないですけど、京都のおとしよりはうるさくて上流が賀茂川で三条四条あたりは鴨川っていわないと怒られたりします。けど、もともと「かもがわ」って音が先にあって最近になって江戸時代ぐらいから当て字で漢字にしたってことで結局どっちでもいいんじゃない?ってのも聞いたことがあります。江戸時代が最近って言われてるのにはさすが京都だなあと感心しましたけどね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
あくまで、人間による尺度なのですね(と、理解しました)。ついクセで人間以上を想定してしまいました。我ながら「クセがすごい」です。「尺度」にもいろいろな歴史があって……と考えていくと悩ましい深みにはまりますから、ここらで栞を挟んでおきましょう。

こちらも桜は散りました。わたしも花粉症で、顔面がムズムズしています。賀茂川と鴨川、法律上はすべて「鴨川」で統一されているみたいですね。しかし実際には「賀茂川」も残っていて、表記に厳しい人、おおらかな人がいる。おもしろいです。「さすが京都」といえば、「うちの店は戦前からありまして……」の戦が太平洋戦争ではなく応仁の乱だった、なんて話も聞いたことがあります。

わたしは明治ぐらいならぜんぜん最近だと感じます。江戸はすこし遠い。応仁の乱までいくと、わりとむかしですね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
蛇足ながら。
以下は自分のための整理です。

時間の比喩で説明するとわかりやすいのではないか、と思いました。

時間には大きくふたつ、クロノス時間とカイロス時間があります。クロノス時間はいわゆる標準時です。みんなが共有している、時計による時間。計測可能な時間。カイロス時間は主観的に伸び縮みする時間です。退屈なときは長く感じる。楽しいひとときは早く過ぎる。これはひとりひとりちがう。

で、このふたつは混ざらない。べつべつなんだけど、両立している。どちらかがあってどちらかがない、のではなく、相容れないふたつの時間が参照し合いながらいっしょくたに成立している。どちらもあるのです。

どちらもある。この前提に立ったうえで、相容れないものを相照らす中間ポイントをひとことで表現するならば、それが「ふつう」と呼ばれるのだろう、とわたしは考えています。二項対立ではない。ここでの「ふつう」とは、別種の時間を橋渡しする第三項です。

ちがう観点から言い換えると、「ふつう」は個人と社会のあいだにある。そのつなぎめに位置づけられている感受性ではないか。つまり「あいだ」の問題です。主観と客観的な尺度のあいだを架橋するものとは何か?を考えています。これがスタート地点。

ここに疑問を感じられない場合、わけがわからないと思う。それはそれでぜんぜんOK。

治療は個人と社会のあいだをつなぐものです。病の治療と「社会復帰」はたいてい不可分。そして社会性となんらかの信心もまた不可分なのではないか。そういう仮説でもある。ただ、上の記事は「個人」に焦点を当てすぎているため、二項対立かと勘違いされやすかったのかもしれない。

わたしの考えはいつも、「あいだ」や「つなぎとめるもの」をめぐっています。自分とこの世界は、何によってつなぎとめられるのか?と、そういう問いでもある。わたしは、なぜ死なずにいるのか?と。突き詰めれば私的な病と、その治療をめぐる記述なのです。