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日記762

 

桜の写真を載せておきます。


写真って、誰でも撮れる。集合的。あるいは公共的、というか。撮影者はわたしでなくてもいい。桜の写真なんか、あふれかえっている。しかし、この桜はわたしが撮らなければあらわれなかった像でもある。「みんな」と「ひとり」が両立するもの。なんかそういうことをずっと考えている。

どちらかというとわたしは、誰でもよくなりたい。instagramでよく使用されるハッシュタグ、「ファインダー越しの私の世界」とは真逆の感覚で写真を撮っている。ファインダー越しの誰でもいい世界。この写真を撮った人は、いまこれを読んでいるあなたでもいい。

誰でも撮れる。

 


 

「猫も王様を見ることができる」ということわざを思い出す。金井美恵子のエッセイにあった。13世紀、イギリスの大憲章(マグナ・カルタ)で制限された王権から派生した、風刺的なことばらしい。王様がそうそうお目にかかれない特別な存在ではなくなり、そのへんの猫でも見ることができるただの人間になった。そんな意味合い。

民主主義制度下の権力者は「公僕」といわれる。おおやけに奉仕する人。でも人間には「私」の部分もどうしたってある。どうしたってある。みんなのことばかり考えてなんか、いられない。だいいち、そんなお人好しはたぶん権力者になれない。公的なふるまいに加え、我欲があるからこそ、のし上がれる。このへんの葛藤は時代がどうあれ、なくならないのだと思う。

人の内面はわからない。「私」は覆われている。写真には撮った人がいるけれど、たいていその人は写っていない。分け隔てられる。自撮りも自己愛の発露より、自己分離の一種だとわたしは思う。加工の隆盛がそれを物語る。そうやって、自分をちょっとだけ、自分ではなくする。未加工でも、撮ってもらった自分でもそう。時間的に分離される。なんであれ、まず「分離」を旨とする表現が写真ではないか。切断、といってもいい。

あたりまえだけど、写真は距離がないと撮れない。レンズを被写体にくっつけたら、真っ暗になる。でもそれはそれでおもしろいかもしれない。距離のない写真。おもしろくないか。触れるとさえぎられる。触覚は、さえぎる感覚ともいえそう。もしくは覆う感覚。「私」は適切に覆われていないといけない。身体が皮膚でぴったり覆われているように。むきだしの「私」は痛い。

「触れる/触れない」。ここに、絵画と写真のちがいがある。と、たしか大山顕さんの『新写真論』(genron)にそんなくだりがあった。画家は絵筆を使って世界に触れる人であり、世界をそっと覆う人でもある。「私は見るために目を閉じる」とゴーギャンは言った(らしい)。写真家は触れない。「けっして触れられないもの」が写真表現の奥底にある。気がしてる。



いま思い出してなんとなく『新写真論』をパラパラめくっていたら、ケビン・カーターの名前が目に止まった。

 

 南アフリカの報道カメラマンであったカーターは、ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている場面を撮った写真によって一九九四年にピューリッツァー賞を受賞した。当時のスーダンの惨状を訴えたこの《ハゲワシと少女》は、多くの賞賛とともに激しい非難を呼んだ。「写真を撮る前に少女を助けるべきだったのでは」というものだ。そのような批判に対してはかならず、現場に介入するよりも、まず報道することこそがカメラマンの使命である、という主張がなされる。正しいかどうかは別として、これはまさにカメラマンは「幽霊」として存在すべき、という主張だろう。しかし、自身が幽霊に徹することができなくなったとき、あるいは周囲から「人間」であることを要請されたとき、カメラマンは深刻なジレンマに陥る。カーターはピューリッツァー賞受賞後ほどなくして自殺した。彼が「幽霊」であり続けるにはそうするよりほかはなかったとぼくには思われる。もしかしたら、現在のカメラマンは、少女を救っている場面を自撮りするかもしれない。pp.83-84

ここで生じた「深刻なジレンマ」は、公と私のジレンマでもある。ケビン・カーターは報道カメラマンとして、世界にスーダンの惨状を伝えた。これは公の業績。「撮る前に少女を助けるべきだったのでは」という非難は私的な「人間性」に向けられたものだ。

カーターを非難する発想の前段にはおそらく「もし自分がここにいたらどうするか?」の問いがある。この問いに「自分なら少女を助けたはずだ」と答えるかたちで非難が成り立つ。それだけ《ハゲワシと少女》が人々の想像力を刺激するなまなましい写真だった、ともいえる。

つまり《ハゲワシと少女》を非難した人は現場にいなかったにもかかわらず、撮影者と自身を無意識に重ねてしまっている。写真を見た人の多くが撮影者になりかわってしまった。現場に連れていかれた。このような想像力の惹起が非難の一因ではないだろうか。

これは冒頭の「誰でも撮れる」につながる話でもある。きれいな桜の写真も、世界の惨状を伝える報道写真も、あなたが撮ったものである。なりかわる。わたしは写真を、そういうものとして見ているし、そのあたりが気になって撮りつづけている。

撮っていると、「あなたが撮りそうな写真をわたしも撮ってみたよ」と教えてくれる人がときどきあらわれる。これも「なりかわり」のひとつだと感じる。

写真の語り手はどこにいるのか。一向にわからない。自撮りでもなお、それが写真であるかぎり埋まらない空隙を感じる。スースーする。時間とは何か。そんな、古くからある問いにも似た、わからなさ。

 


っていうのもね、眼に見えず、触れられず、匂いもせず、音もせず、味わえない。五感のすべてを否定しているのが時間なんだよ。それにすごい興味があった。で、写真なら時間を撮ることができると思ったの。

はじまりの傷:石内都 interview 〈前篇〉 - i-D

 

写真家、石内都さんのインタビュー。とても興味深いと思った。写真なら「五感のすべてを否定している」時間を撮ることができる、と。写真も時間と似て「五感のすべてを否定している」といえそうか。時間とは、空間の比喩だとわたしは考えている。もしかすると、これにちかい発想かもしれないし、ぜんぜんちがうのかもしれない。

 

 

写真だけ載せて文章はかんたんに済ます予定だったけれど、けっきょく長々と書いてしまった。5分で済ます予定が2時間もかかっている。やりはじめるとなかなか終われないタイプ。

 


 

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