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日記765


バンクシーっぽいうさぎです。





 エレクトゥスが最初に学習を開始したとき、いかなる脳も孤立してはいなかった。人間の脳はネットワーク化されている。まず、その脳は体の中でネットワーク化されていて、進化的に、また生理的に、他の臓器につながっている。しかし同じくらい重要なのは、脳は他の脳ともネットワーク化されていることだ。哲学者のアンディ・クラークが以前から言っているように、文化はわれわれの脳を「超巨大化」する。脳という器官は、文化の海の中で他の脳器官とつながる。この点は強調しておくに値する。pp.182-183



ダニエル・L・エヴェレット『言語の起源 人類の最も偉大な発明』(白楊社)を読んでいた。引用箇所、とてもだいじな洞察だと思う。きのう書いた「ほんらい、世界は何も切り分けられない」にもつうじる。人類にはいまもなお、分かれていないぐちゃっとした精神性が残っている。「個人」ではありえない。ぐちゃーっとしていて、だけどいかんともしがたく「個人」でもある。この矛盾について、いつも考える。この矛盾について。



言語が進化するにつれて、言語行為、間接的言語行為、会話、語りは、協働や、暗黙の(語られない)情報や、文化や文脈に大きく依存することは明らかだ。これまで言語が機能してきたのは、そのやり方でしかありえないからだ。p.386


 

言語には状況に則した切り離しがたい暗黙の情報がつねにふくまれる。そうとうな訓練を積まないかぎり、テキストをうまく腑分けして書く/読むなんて曲芸はできない。見ず知らずの者同士でも共有可能な読み書き能力は、ものすごくアクロバティックなものだと感じる。



 

 

そう、数学は自分の文脈を脱しないと理解できない。勝手な推測をいれる余地はない。おそらく、多くの人が数学に困難を感じるポイントはここだ。イマココの文脈をぶっ飛ばすアクロバティックな訓練が必要になる。数学は思考のアクロバット。それだけに、身につければスイスイ飛べる。どこまでも飛んでいける。

 

 この身体、この感情、この意欲といえば本来はすむところを人はなぜか、自分のこの身体、自分のこの感情、自分のこの意欲と言わずにはいられない。ところが数学を通して何かを本当にわかろうとするときには、「自分の」という意識が障害になる。むしろ「自分の」という限定を消すことこそが、本当に何かを「わかる」ための条件ですらある。p.134

森田真生『数学する身体』(新潮社)


自分の狭い文脈から抜け出なければわからないことがある。

 

論理的な読解/記述能力もまた、自分勝手な推測を削ぎ落とすところから鍛えられる。数学の証明問題にもちかい。しかし言語にはそもそもイマココの文脈に依存する性質があるので、イマココから切れた論理を直感することができない。「自分の」狭い直感を度外視する修行によって論理はつちかわれる。

 

「人権」のわかりづらさを連想する。犯罪者にも人権がある。というと、多くの人の直感に反する。おそらく概念理解に「自分の」を加味しているせいだ。「人権」は自分の文脈をぶっ飛ばしたところにある構築的な術語なのだ。というか、「普遍的」とされる概念はぜんぶそう。イマココの狭い状況をぶっ飛ばす必要がある。理解には訓練がいる。

 

「個人」もきっとそうだ。逆説的かもしれないけれど、「自分の」という文脈から逸れたところで育まれる。「自分の」から、「の」を削いで、「自分」にならないと個人は立ち上がらない。「個人」も論理的なふんばりを求められる概念で、直感に反するのよね。たぶん。「の」を捨て去り、裸一貫の身ひとつにならなければいけない。

 

所有が論理を阻害する。
ともいえるか。

 

論理って、つめたいものに思われるかもしれないけれど、かならずしもそのかぎりではない。ほんとうは「自分の」を超えて飛べるものだ。適切に腑分けして、あなたに届けるものだ。ことばは所有できない。「わけわけする」という関西弁が好きで、それをイメージしている。分けるだけではなくて、分けて共有するためのもの。


 他の悲しみがわかるということは、他の悲しみの情に自分も染まることである。悲しくない自分が悲しい誰かの気持ちを推し量り、「理解」するのではない。本当に他の悲しみがわかるということは、自分もすっかり悲しくなることである。「他の」悲しみ、「自分の」悲しみという限定を超えて、端的な「この悲しみ」になりきることだ。「理で解る」のではなく、情がそれと同化してしまうことである。  
『数学する身体』p.135

 

 

限定を超えてなりきること。その通りだと思う。ただ、わたしは「理」と「情」を対立させずに、「理」と「情」は不可分な両輪だと言いたい。ここだけちょっとちがう。「理」をドライヴさせる燃料が「情」ではないか。いくところまでいけば、「理」と「情」さえもが同化してしまう。「わかる」とは、それほどエレガントでアクロバティックな出来事だ。

 

 

万有引力とは
ひき合う孤独の力である



谷川俊太郎「二十億光年の孤独」の二行。

人のことばが湛える論理性も、「ひき合う孤独の力」だとわたしは思う。
孤独で、何も持たず。だからこそ伝わる。

 

 

 

……それとはべつに。

きのうの日記ときょうの着想をつなげるなら、「個人」として分かたれた言語性(便宜)とイマココに依存しまくっている身体性(生理)、このギャップを指摘したいのね。人によって度合いが異なるけど、誰にでもことばとからだのあいだにひらきがある。で、ギャップがひどい場合けっこうつらかったりするんよ。そうなんよ。


 

短文で終わりたいのに、ぜんぜん短文にならなくて困る。

 

 

 


 

 4月14日(水)


「人間って集団的で、マジでぐちゃっとしてんだなー」となんとなく腑に落ちてから、満員電車がそこまでつらくなくなった。つらいことはつらいけれど、以前よりマシ。ああ、人間ってこういう感じだ!と思う。人間を感じる。やっと人間になれた気がする。

思索は健康にいい。

 

 

 



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