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日記768



地上の星。





 人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法である。俗にこれを芸術という。p.6

 

 

古本屋さんで『西脇順三郎コレクションⅣ 評論集1』(慶應義塾大学出版会)を買った。その帰りにブロッコリーとニンジンとホウレンソウを買って、おなじカバンに詰めた。

 

さいきん寒い。皿を洗いながら「写真と貨幣は似ているんじゃないか」と謎のひらめきを得た。わたしの感覚では、どちらも「切れる」ためにある。匿名的な性質があり、借り物である……。でもわからない。感覚だ。意味不明な思いつきでしかない。

雨音がする。



 最近ときたま考える。本当は、圧倒的な量塊を持つ過去に押しつぶされないために住宅は在るのではないか、と。まじまじと見れば、過去は圧倒的だ。普段は考えないだけで、あるいは思考の外に追いやっているだけで、だれにとっても、どんな家でも、過去は圧倒的な量塊を持っている。
 けれど、それをまともに受け止めていては、今を生きられない。建て主はもちろん、建築家もそんなものを受け止めていては設計はやっていられない。ある程度の効率の中で処理をしていく。それが経済社会の暗黙の了解事項だからだ。だから限られた時間のなかで、過去を切り離し、与えられた条件のなかでかなり無理をして形を与えようとする。pp.125-126



建築家、内藤廣の散文集『空間のちから』(王国社)より。雨粒が窓を打つ音から、この「圧倒的な量塊」ということばを連想した。雨の量塊もまた圧倒的で、なすすべがない。過去をせきとめるように窓をしめきり、部屋にこもる。住宅は環境を静止させ、打ちつける過去からわたしを守ってくれる。外の世界では追いやられた過去が鳴りつづけている。

部屋は自然環境に左右されない。よほどのことがないかぎり。かぎられた空間のかたちは、かぎられた時間のかたちでもある。過去にまみれている暇はない。しかしなお、過去の音は消えない。ぬぐいきれない記憶につまづく。ときに侵食される。それを食い止めるように忘却しつづける。


ブロッコリーの茹で汁でコンソメスープをつくった。



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