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日記769



きのう「写真と貨幣は似ている」と、トンチキな思いつきを書いた。きょうもきょうとてトンチキをつづけるなら、「写真家と貨幣発行主体は似ている」としたほうが正確かと思う。つまり、主体の問題を考えたかった。しかしトンチキだ。自分でもちょっと何言ってるかよくわからない。「写真を撮る≒お金を刷る」ということか。債務としての写真。みたいな。

 

 

4月18日(日) 

 

新宿の写真ギャラリーPlace Mに立ち寄った。「旅しないカメラ10」というグループ展。やはり、写真は撮る人によって変わる。あたりまえか。各人べつべつの信用力をもって貨幣を発行している。債務のあり方が飾られている。そうやって見ると、より引き込まれるかもしれない。ギャラリー内は誰もおらず、静まり返っていた。

ひさしぶりの新宿。相変わらず道に迷う。人間が多い。にぎやかな二丁目の路地を抜けて帰る。「あいつキンタマがでかくてチンコがちっちゃいのよ!」と、どこからともなく聞こえた。爽やかな日曜の夕方だった。






靖国通りを歩きながら、藤井風の「帰ろう」を聴いていた。「帰る」と「忘れる」はセットなのか。忘れられない状態は、帰れない状態にひとしいのか。たしかに居場所のなさが記憶の淵源にはあるような。そんなことを思う。帰る場所とは、自分が安心していなくなれる場所だ。名前を忘れられる場所。


 

「きっといつかは帰りたいんだね?」
でもどこへ? 帰る場所はどこにもない。もう取り返しはつかない。
ただ記憶の中で、いくつもの声がひゅうひゅう鳴り響いている――
住所、住所、住所、住所、と。


沼野充義『亡命文学論』(作品社)に載っていた、ニーナ・ベルベーロワの詩を思い出した。





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