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日記772



ふつうであり、特別である。ワン・オブ・ゼムであり、オンリー・ワンである。「みんな」であり、「ひとり」である。どちらも然り。ふつうに特別。これがいちばんニュートラルでバランスのとれた精神状態なんだと思う。個と集団が継ぎ目なくスルッと通じている状態。

たとえば人前で何か発表するとき、緊張してしまう。それは自分が矢面に立つオンリー・ワンになるせいだ。先日、野球中継を見ていたら「どうすればマウンドで緊張しなくなりますか」という視聴者の質問に解説の佐々木主浩さんがこう答えていた。「みんな緊張するよ」。

簡にして要を得たご回答だと思う。つまりオンリー・ワンに偏った精神状態を、ワン・オブ・ゼムに引き戻すことを言っている。ひとりで緊張するとガチガチになるから、そこへ「みんな」を注入する。みんな緊張するんだ。そうすると、すくなからずリラックスできる。

逆にワン・オブ・ゼムへの偏りには、オンリー・ワンを呼びかけたほうがよい。たとえば「自分はいくらでも替えの効く存在だ」とヤケになるとき。どうせ誰でもいいんだ、大勢の中のひとりだ、物言わぬ数字だ、と。現在のわたしは、こっちに偏りやすい。十代二十代のころはオンリー・ワンに偏りやすかった。ライフステージの変化によって、精神的な偏りの傾向も変化するのだと思う。

ブログを書くことはたぶん、オンリー・ワンの注入になる。しかしこれも数多ある個人ブログのひとつに過ぎない。路傍の石におなじと半ばしらけつつ。あまり自大にならぬよう。こうしたバランス感覚がたいせつなのだと心得る。

オンリー・ワンばかりを主張したり、ワン・オブ・ゼムばかりを主張したり、そうなってくるとバランスが崩れている。人の感情はおそらく、このどちらかの偏りをつたえている。すくなくともわたしはそう聞いて、そう読む。自分自身に関しても、そう捉える。

偏りは病のもとでありながら魅力にも変わりうる。なので、均せばよいというものでもない。わたしは基本的に憂うつな人間だが、それが悪いとはまったく思っていない。自分のネガティビティに自信をもっている。これもひとつの視点だと。そうなるとむしろポジティブである。

自己受容も均す方法の一種といえば、そうなのかもしれない。
「均す」というより反転か。

 

ともあれ。きのうは「オンリー・ワンへの偏り」を強調したけれど、「どっちもあるよな」と考え直したのだった。きのう書いたことも一面としてありうるとは思う。上記は訂正ではなく、補足的な考え。


 



4月21(水)


風が心地よかった。

 


コメント

anna さんのコメント…
ワン・オブ・ゼムとオンリー・ワンの間のバランス感覚が大事ってほんとに実感します。でも、わたしの国語力では「均す」が読めなくて検索してしまいました。

何日か前のブログに書いてたホルヘ・ルイス・ボルヘスの『伝奇集』ってちょっと面白そうって思ったんで、本屋に行って探してみたんですけどありませんでした。今度、四条あたりの大きな本屋さんに行って探してみようかと思います。
nagata_tetsurou さんの投稿…
共感いただけてよかった。ありがとうございます。「均す」が読めなくて~という、ここにannaさんがいますね。この一文はオンリー・ワン的で、最初の共感はワン・オブ・ゼム的です。同質な部分と、異質な部分のバランスがふたつの文章で完璧にとれています。すばらしい!笑

『伝奇集』は大きな本屋さんなら、かならずあると思います。古本屋さんでもひんぱんに見かけるロングセラーです。「難解」とも言われる小説集ですが、「かっこいい」って感覚さえあれば余裕で読めます。「なんかわかんないけどかっこいい!」って感覚が何よりたいせつです。