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日記773



雪見だいふく。



 それと、外来診療を続けている患者さんがすっと元気になった時は、別れを告げに来た時と思ってもいい。わけもないのにすっとよくなっているんですね。帰りに飛び込もうかと思って来ている時は、うつ状態がずいぶんよくなるんですね。p.177

 

ようやく読み終えた『座談会 うつ病治療 ―現場の工夫より―』(メディカルレビュー社)。引用は、神田橋條治医師の発言。「出口が見える」とか「終わりがある」とか、そういうことが人にとってどれだけの希望となっているかを思う。たとえそれが「死」という出口であっても、そこには希望がある。「終わりのなさ」はどんなものであれ、つらい。

楽しい出来事もえんえんつづくとなれば徐々に疲労をきたす。どんなに美味しい食事でも、永遠にそれしか食べられないとなれば地獄だ。終わることが何よりの希望であり、贅沢なのだと、わたしは感じる。何もかも終わるから大丈夫だと、いつも自分に言い聞かせる。何もかも終わるから。 

終わりなき深みに嵌まらないためには、日々の細かな終わりを愛おしむといい。先の見えない、数え切れないほどの明日を、ひとつひとつ数えるように。静かな声で、ちいさく刻む。ありがたいことに、きょうも終わってくれる。2021年4月22日はもうやってこない。


毎日毎日が、私たちに、消滅すべき理由を新しく提供してくれるとは、素敵なことではないか。


エミール・シオラン『告白と呪詛』(紀伊國屋書店)の一文。悲観的、虚無的といわれる思想家のシオランだけど、じつは希望を語っているのだと、わたしにはそう思えてならない。つまり、終わりを語っている。彼のアフォリズムはこの世の出口を眼差すための、これ以上ない贅言だ。

「贅言」は通常、悪い意味で使われる。無駄で余計なことばを指す。しかしあえて「贅言」として讃えたい。必要ではなく、不要な視座からものごとを見る。そこにこそ人生の贅沢がある。ポップに変換するなら、「すべて忘れて帰ろう」と言っている。わたしの中では藤井風の「帰ろう」とほぼおなじである。ほぼ。


話を戻そう。

神田橋先生いわく、「ありがとうございました。先生によくしていただいて、お陰様で……」なんて言い出す患者さんは危ないそうだ。「感謝」と「終わり」はおそらく深く関係している。弔事に至ってはじめて赤塚不二夫への感謝を述べたタモリを思い出す。

つづく中井久夫のエピソードも興味深かった。


 中井久夫先生は、自殺を決意した人はすぐにわかるって。その患者さんの魂に触れられなくなる、魂がすうっと向こうに行くって。それは、中井先生のスピリチュアルな味わいなんでしょうね。名古屋市立大学の助教授時代に、回診をしていて「ああ、この人は今晩自殺する」とわかったから、当直医はいるけど自分も一緒に泊まってずっとその人を監視していた。案の定、窓から飛び降りようとしたので止めたって。そういう例がいくつかあったらしくて、「どうしてわかるんですか?」って聞いたら、「患者さんに語りかけると、返事をするけど魂がすうっと遠ざかっていく感じがするんだ」と。中井先生独特の感性なんでしょうね。pp.177-178


野暮な問いかもしれないが、「魂」とはなんだろう。なんだろうね。わたしはこれを読んだとき、「痛み」なのではないかと思った。患者さんの痛みに触れられなくなる。それまで患者さんが宿していた痛みがすうっと遠ざかる。この解釈は「うつ状態がずいぶんよくなる」という神田橋先生の肌感覚とも整合的である。医師と患者は「痛み」を介してつながっている。

ここで思い出すのは、エヴァンゲリオンの映画公開に合わせてNHKで放送されていた庵野秀明監督のドキュメンタリーだ。庵野さんも自殺を考えていた時期があったという。なぜ自殺を踏みとどまったのか?と問われ、彼はシンプルにこう答えていた。「痛そうだから」。

痛みに思いを馳せているうちはきっと死ねない。苦しみの要因である痛みが逆説的にも、人をこの世につなぎとめている。「痛み」ってやつに施錠されて、わたしはきょうもこの世にいた。終わりを愛おしむことは痛みを愛おしむことにも通底する。そして感謝にも。







 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。


太宰治「葉」の冒頭。上に書いた「数え切れないほどの明日を、ひとつひとつ数える」とは、たとえばこんなこと。月日を有限に折りたたむ。あるいは「これは捨てられない」という思いも、痛みの一種なのかもしれない。もらい受けた「借り」によって、生きていようと思える。



4月22日(木)

読書も、「借り」がつのる行為だ。著者の時間をすこし借りている。場合によっては数百円の文庫本で、著者の生きた何年もの歳月を借りることができる。古本屋さんで『神谷美恵子著作集10 日記・書簡集』(みすず書房)を買った。百円。

小学生がスーパーの前で笑い転げながら「勝てねえ……」とつぶやいていた。




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