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日記775


「想像なくして人は生きられない」と、きのう書いた。ここでいう「想像」は要するに時制だ。時制に失調をきたすと社会から置き去りにされてしまう。「死にたい」ということばはおそらく、「あるひとつの時制から離脱したい」と言っているのだろう。

わたしが「死にたい」と感じるときはたいてい、本気で死にたいわけではない。「じゃあ、どういう意味なんだ?」と積年の謎だった。つまり時制への拒否感なのだ。語学が堪能だと「時制への拒否感」をコントロールしやすくなるのかもしれない。いや、きっと語学だけではない。

 

 そこに一冊の本を置く。ただそれだけで、何でもないような日常の光景のなかで、ずいぶんまわりの風景が変わってくる。というか、まわりがはっきりとよくみえてくるということがあります。「もう一つ余分に次元をもったいま、ここの人生」。作家のミヒャエル・エンデとの会話でエアハルト・エプラーという人がいったその言葉がわたしは好きですが、本とつきあうというのは、その「もう一つ余分に次元をもったいま、ここの人生」への欲求なんだとおもう。p.109

 

長田弘『笑う詩人』(人文書院)より。「あるひとつの時制から離脱したい」という欲求は、この「もう一つ余分に次元をもったいま、ここの人生」への欲求につながる。読書だけではなく、音楽を聴いたり映画を観たりしてもいい。なんでもいいんだ、余分な次元なら。

エヴァンゲリオンの庵野秀明監督は「痛そうだから」自殺しなかった。「痛そう」という想像。これがいちばん原始的なかたちの「余分に次元をもったいま、ここ」なのだと思う。自殺していない「いま、ここ」においては痛くない。実際の痛みはやってみないとわからない。しかし想像するに、痛そうである。この余分な次元。

余分な次元は自分でつくることもできる。文章を書いたり、楽器を奏でたり、映像を撮ったり。歌ってみたり、踊ってみたり。さいきんわたしは、ホーミーの練習をしている。モンゴルやトゥバで盛んな倍音唱法。余分が過ぎる気もしないでもない。

ちなみに清水ミチコさんはホーミーで動物を呼べるらしい。

 



わたしもたぶん呼べる。




コメント

anna さんのコメント…
語学が堪能って羨ましいです。私は、英語とか覚えるのがいやだったから理系に進みました。
あ、ここでいう語学って外国語とかそういう意味じゃなくて、言葉の豊富さとか理解の深さとかいう意味なんですね。ちょっと勘違いしました。きっと私の英語コンプレックスのせいです。

今日は三条河原町の大きな本屋さんに行って、この間のボルヘスの『伝奇集』を探しに行こうかなと思ってたんですが、緊急事態宣言出てなんか外出しづらくなっちゃいました。
nagata_tetsurou さんの投稿…
そうですね。わたしも語学は苦手です。上に書いたのは「語学が堪能だと~かもしれない」なので、可能性の話ですね。外国語もふくめた、広い意味での文化が念頭にありました。言語学習は同時に、その言語圏の文化を学ぶことにもつながります。語学ができれば文化の越境もしやすい。それは時制の越境であり、「余分な次元」の獲得でもある。そして越境は「死にたい」を代替する。まとめると、そんな内容です。

「ボルヘスは旅に値する」と、『伝奇集』の解説にはあります。小旅行を味わえる。まさに「越境」です。理系的センスあふれる作家でもあって、ぴったりかもしれません。「読みたい本がある」って、いいものですね。じっさい読むよりも、「読みたい」という気持ちの起こりのほうがわたしは好きです。