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日記777


 そこでいま、この「生」の波上曲線の上に、もしも、このような個体の「死」を記入しようとすればどうなるか? それは、この波の頂点から、長短さまざまに枝分かれした1本の引込線の突端に、1個の点として打たれるよりないものとなろう。ひとびとにとってどんな言葉をも超絶したと思われるこの出来事も、以上のことから、それは、生の本流の上には位置することのない、いいかえれば、食から性への位相転換に付随して起ったひとつの“挿話的”な出来事であることがただちに推察される。

 

三木成夫『生命形態学序説 ―根原形象とメタモルフォーゼ―』(うぶすな書院、p.21)より。種族保存の営みである「生」のマクロな流れからすれば、個体の「死」は1個の点、ひとつの挿話であるという。逆にいえば、そんな挿話の過去から現在に至る総和がこの世界なのだろう。歴史とは、挿話の総和。日々に挿話を加え、ミクロな1個の点を打つ。それが日記。

4月12日から、まいにち更新を再開して、きょうで2週間。あんがいモリモリ書けるので安心した。強制的に書くほうが性に合っているのかもしれない。「やらされる」のたいせつさをこのごろ実感する。やろうとしなくても勝手にまわる、そういう状態がなんにおいても理想的。

「好きで書いているのだろう」と思われそうだけれど、そんな積極的なものではない。「乗りかかった船」に過ぎない。ふわーっとなんとなく漕ぎ出したら、降りる地点がわからなくなってしまい、ぐるぐる漂流しつづけている。出発点も目的地も見失って、もはや方向性もクソもない。どうしよう。しかし、これでいいのだ。

写真に関してもそう。始まりも終わりもわからなくなって、単に癖で撮りつづけている。そうなってしまった流れにしたがう。個人的な感覚だと、「好き」なんてもんはつづきゃしない。人間関係とおなじだ。しょうがない。たいていの人間関係はしょうがなくて、どうしようもなくて、いかんともしがたくて、容赦がない。それでも、なんとかやっていく。

「生きていることとは四季色とりどりの移り変わりにこの肉体がしたがうこと」というゲーテのことばが『生命形態学序説』には引用されている。「したがうこと」が生きることのきほんにはあるのだと思う。といっても、単にしたがうばかりでも始まらない。最初の漕ぎ出しには抵抗力が必要になる。初手のふんぎりさえつけば、あとは否が応でもまわってしまう。

 


 

京都。


4月26日(月)

鍋島弘治朗『メタファーと身体性』(ひつじ書房)を買った。値の張る本だけど、思い切る。ふりかえると、なぜか緊急事態宣言のたびに高価な本を買っている。気分が萎えるせいか……。人には悲しいときに高価な買い物をしがちな傾向があるとかないとかどこかで聞いたような聞かなかったような気がしないでもない。

それはいいとして、メタファーに関心がある。


メタファーとは、感覚と認識の出会う「場」のことだ。


東宏治『思考の手帖 ぼくの方法の始まりとしての手帖』(鳥影社、p.314)より。これを読んだとき、感覚と認識の出会う「場」には、身体が関係するよなーと思った。そこから、メタファーと身体を絡めて論じたような研究はないか探したところ、『メタファーと身体性』にいきあたり、ドンピシャ過ぎて購入するしかなくなった。

比喩表現は「個人の主体的な考え」という感じがあまりしない。テーブルを用意するような、ひとつの「場」を切り出す効果がある。比喩のテーブルについて、みなが話し合う。「あいだ」をひらく修辞だ。それは「心」や「精神」を考えるうえでもきっとヒントになる。

精神科医の宮地尚子さんが「トラウマを耕す」という比喩を打ち出していて、これだけで思考が氷解する感じがした。トラウマって耕せるんだ。コチコチに固まったものをすこしずつほぐしていくようなイメージ。比喩なので「感じ」でしかないけれど、よくわかる。

ストレッチをしながらたびたび「体を耕している」と思う。それにもちかい。心理的にも凝っている箇所はたくさんあるのだろう。固い部分は、できるだけ耕せるようにしよう。

比喩はおもしろい。なんかわかった気がするから。それだけに危うさもあるけれど。しかし「わかった気がする」が重要なのよ。物事はそんなにすぐわかんないから、「気がする」からじわじわ攻めてくのよ。そうなのよ。




コメント

anna さんのコメント…
なにがどうなって「京都」になってんでしょう。切れてる部分にはたぶん違う言葉があったんでしょうけど。

乗りかかった船というか、日記と割り切って書くのが意外と習慣化しやすいんでしょうか。確かに、日々の何気ないことには、レスのコメントもなんか書きやすいです。
nagata_tetsurou さんの投稿…
もとは「東京都」かなーと思いますが、「東」の位置がよくわかりませんね。謎です。

やらなくてもいいことに、なぜ時間をついやしているのかというとやはり「乗りかかった船だから」なんですよね。「やらなくてもいいのになんでだろ」って思いが前提にあります。「なんで生きてんだろう」という問いにもちかいのです。生まれちゃったから、しょうがないね、みたいな話でした。

なんでもないことを、なんでもないまま書けたら理想です。いろいろ考えちゃって大仰になりがち。笑